紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!
「最近、絶句したことありますか?」
気がついたら、目の前のひとに訊いていた。
あなたは「健康的な食事をしたい」と言って、健康的な定食を食べていた。わたしもまた、たくさんの小皿に少しずつ乗っかった健康的そうなものを食べていた。どれもこれも、行儀がよさそうだった。
「あります」
あなたはすぐにそう言った。臨床の場にいるあなたは、そのときのことをぽつりぽつりと話してくれた。どれもこれも、そうだよな、と思うようなことばかりだった。健康的な食事たちは、するするとお腹に入って、すぐに何を食べたのか忘れてしまった。
「最近、絶句したことありますか?」
ある夜、湿度をたっぷり含んだ空気がただよう路上で、別のひとに訊いていた。
支援の場にいるあなたは、ぽつりぽつりといろいろなことについて話してくれた。わたしたちは行儀よく整備された道を歩いた。
「あの時、なんて言ったらよかったんだろう」
わたしたちはそんな逡巡を繰り返している。あの時、あの瞬間、あの言葉の前で、わたしはどうすればよかったんだろう。何も返せなくて、何も言えなくて、いやむしろ、言い過ぎたり、ごまかしたり、覆い被せたり、そんなことをしたのではなかったか。
あなたの言葉をききながら、わたしもいろいろなことを思い出す。「なんて言うべきだったんだろう」とつぶやく。だが、つぶやいた途端に、みずみずしい野菜を食べていたら、とつぜん砂をじゃりっと噛んでしまったような、違和感がした。歯でじゃり、じゃり、とすりつぶすと、不快感がみちてくる。これは食べられない、と脳が直感するように、これはわたしの問いではない、と何かが言っている。
思い出すことを、ただ書く。そこにどんなつながりがあるのかはわたしにもわからない。
ある場所で哲学対話をした。参加者のひとりが出した「なぜひとはよそ見をするのか」という問いに決まった。いい時間だった。よそ見をしていたおじさんの自転車に轢かれた話や、高校の先生が授業中よそ見をしていた話や、よそ見ばかりして散歩をしている話など、具体的なエピソードがどれも面白い。そこからわたしたちは「よそ見」とは一体何をすることなのかを探っていく。
「見るべきもの」という言葉がわたしたちの口からたくさん出る。見るべき対象から目がそれてしまう。気がそれてしまう。そうではない方向に意識が奪われてしまう。それがよそ見である。だが、わたしはやはり思う。
わたしたちに「見るべきもの」など、あるのだろうか?
またはこんなことだ。最近、生活困窮者支援の現場にちょっとずつ入っている。そこで出会うひとたちの困りごとをきく。だが、うまく問うことができない。ちょっとずつききとっていくと、驚くようなことを言われたりする。そのときも思う。何を言うべきなのか、何を問うべきなのか。だがやはり、そんな風に問いたくないとも思う。
ただ言葉を失う。そしてその言葉の詰まりを、忘れたくないと願う。
あるいはこんなこともあった。選挙中、まちでは街宣や対話集会が行われていて、そのいくつかを見た。すらすらとした言葉をよどみなく話す政治家もいれば、強い思いをのせて、にじみ出るように話す政治家もいた。だが、不思議と印象に残ったのは、市民に問われて、言いよどみ、言葉を探す政治家の、ほんの数秒の沈黙だった。わたしはあの音のない音を、もっときいていたいと思った。
*
わたしたちの人生は、他人ごとのようにすすむ。生きている気がしないんだよな、とあなたは言っていた。ずっとずっと、生きている気がしないんだ。めちゃくちゃに働きながら、どこかでそれをあきらめたように見ている。たくさん、たくさん、言葉を喋りながら、語りながら、それを白々しい気持ちできいている。
わたしもまた、大勢の前で何かを話すことがある。言葉を落としながら、わたしはうつろな塊を抱えている。言うべきことを言わねばと思って、何かを言うが、上滑りしていくようだ。なんだよばかばかしい、と思う。言うべきことなんてもの、あるのだろうか。いま、ここのわたしを離れて、とりあえず言っておかなければならないこと、見ておかなければならないことなど、本当にあるのだろうか。そのときに吐き出される言葉は、自分でもすぐに忘れてしまうような言葉だ。
なぜこんなにもわたしたちは「語れてしまう」のだろうか? あっというまに、きれいに「論じてみせる」ことができてしまうのだろうか? ぐちゃぐちゃに絡まりあったものに、つるつるの布をかぶせて、いち、に、さん、と数える。ばっと布を引き抜けば、すべてが整然と並んでいる。うつくしく整っている。手品のようだ。
何か衝撃的なことはわたしたちの社会にいつも起こっている。突然やってくる。停電のように。ばつん、といきなり電気が切れる。真っ暗闇になって、心拍数があがってしまう。そこでわたしたちは絶句することができない。わたしたちは語ることが苦手なくせに、沈黙することができない。いち、に、さんで、とりあえず整える。一瞬のできごとだ。手品が成功してわたしたちはほっと息をつく。
ある高校生と話した。あなたは教育のことを考えたいと言っていた。多様性を尊重した現場をどのようにつくれるのか、悩んでいた。学校に居場所がなくなってしまった子を、どうやったらすくいとれるのか、考えていた。わたしはそれを手元のメモに書き留めながら、ふんふんと聞いていた。あなたはある大学を受験しようとしていて、志望理由書を書こうとしていた。だからわたしは、それをどうやってまとめあげるかをずっと考えていた。
あなたは、言葉をさがすようにして、か細い声で考えながら話した。志望理由というよりは、自分の思いを語るようだった。その声はどんな歌声よりもうつくしかった。なのにわたしは、硬いパイプ椅子に座って、濁った赤ペンであなたの声を書き取って、ガリガリと音を立てていた。汚い字を書き連ねながら、わたしはあなたの言葉同士を矢印で結んだり、下線を引いたりした。それは何の意味もない下線だった。
多様性をどうして尊重しなければならないと思う?とわたしはあなたに訊いた。どうして居場所がなくなってしまった子が気になるのかな、と紙を見ながらつづけて尋ねた。わたしは志望理由書のことを考えていた。どのように論を立てるかについて、考えていたのだ。
あなたは沈黙した。わたしは思わず顔をあげた。あなたは泣きそうな顔をしていた。懸命に考えて、言葉をさがしていた。何秒か経ち、そして、絞り出すように言った。
「その子が大事だから」
そうか、そうだよね、そう、そうだよな。わたしは言った。それから何も言えなかった。なぜだか、涙がこぼれそうになった。そのとおりだよ、と心の中で叫んだ。手元のメモが、ひどくばからしく思えた。あなたの言葉が適当に図式化されていた。くだらないな、と思った。
あなたはそれからすばらしい志望理由書を書いて、大学に合格した。あなたはいま、どこで何をしているのだろうか。ときどき、思い出す。
*
「現在の日本社会における哲学の役割」や「対話の必要性」と言われるたびに、何を言うべきか考えてしまう。言えることはたくさんある。だが、それが一体何になるのかよくわからない。
衝撃的な社会問題が起きる。これまで焦点の当たらなかった「問題」がクローズアップされる。大きな手が、スマホの画面を人差し指と中指で拡大するように、ぐいっと問題を大きくみんなに見えるようにする。SNSで、テレビで、一気に特集が組まれはじめる。多くのひとが論じる。言うべきことを言って、論じるべきことをバサバサと論じる。
「言うべきことを言わないと」
煙草をくわえながら、あなたは言った。言うべきことって何なの、とわたしは言う。そんなのあるの。とりあえず言っておかなければならないことって、本当にあるの。あなたは「そうだね」と言って、うつむく。
見えなかったものが見えるようになるとき、叫びが聞こえる。それは逆説的な叫びである。
わたしたちを語らないで
わたしたちを論じないで
わたしたちを見つけないで
見えなくされていたものが、見えるようになることは重要だ。まちがいない。そして「問題」は、見つけてほしいとずっと叫んでいた。ここに、見過ごされてきた何かがあるということを社会に糾弾してきた。無視するな、と怒っていた。
でも、それは同時に叫んでもいる。わたしたちを論じてみせないで、言うべきことを言ってみせてしまわないで、簡単に語らないで。もっともっと、激しく怒っている。
「がんばろう東北って、どういうことだと思います?」
数年前に訪れた被災地での哲学対話で、誰かが叫んでいた。その場がどっと揺れた。わあっとひとびとから声が出た。東京からきたわたしは、何も言うことができなかった。
沈黙は意識的な行為だ。沈黙は評判がわるい。わたしたちはそもそも沈黙に不安をかきたてられるし、それを埋めるように話し続けてしまう。それに、なにかおかしなことが起こっているときに沈黙するというのは、不正義の是認である。だから、何かを言わないと、と思ってしまう。
だがそれは本当にそうなのだろうか。黙認してしまうことなしに、立ち止まることができたら。そのままに、あなたのそばにいることができたら。そんなことは可能なのか。
絶句は意識的にはできない。思わずしてしまう。だがそのあと、簡単に何かをまとめようとしないことはできるかもしれない。沈黙は意識的な行為なのだから。容易さにとびつくことへの抵抗としての沈黙。それは可能なのか。踏みとどまり、手品を見せるように論じてみせてしまわないで、言葉を探すことはわたしたちにできるのだろうか。
「何も言えないけど、あなたのマブダチでいることはできる」
ある夜にあなたは、しょぼくれていたわたしを前にして言った。あなたは絶望したわたしを前にして、壁によりかかりながらそう言った。その言葉はわたしに届いて、いつまでもそばにいた。
わたしはもっと絶句したい。言葉が出てこない、その痛みに裂かれたい。そうして、その苦しみの中で、なんとか言葉を探して、それから何度も、何度も語りなおしたいと思う。そのために書いている。考えている。
語らないで語る。黙ることで黙らない。それがどういうことか、まだわからないままに、さがしている。
筆者について
ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。