芸術家・岡本太郎は沖縄を訪れ、1961年に『忘れられた日本 沖縄文化論』を出版、「沖縄の中にこそ、失われた日本がある」と説いた。同年、奄美大島に住む作家・島尾敏雄は「ヤポネシアの根っこ」という論考を発表した。日本列島を、画一化された国民国家・日本から解放することで、もうひとつのあるべき日本を模索するという構想が、彼の「ヤポネシア」論には含まれていた。島尾の「ヤポネシア」論はいかなるプロセスを経て、縄文礼賛論と結合していったのか。縄文左派はどのように誕生したのか。
南島論の興隆
1960年代に入ると、日本の高度経済成長が確かなものとなり、池田勇人(いけだ・はやと)内閣は「所得倍増計画」を打ち上げた。1964年には東京オリンピックが開催され、東海道新幹線や東名高速道路も開通した。第2次世界大戦に敗北し、焦土と化した日本が、瞬く間に経済成長した過程は「東洋の奇跡」と言われ、礼賛された。
一方、急激な経済成長と消費社会の到来に対して、懐疑的なまなざしを向ける議論もみられた。「東洋の奇跡」が「日本人の勤勉さ」といったナショナルな属性に還元されて語られる中、「日本人とは何か」という本源的な問いが再熱していった。
そのなかのひとつに「南島論」の興隆がある。きっかけを作ったのは、1961年の柳田国男『海上の道』の出版だった。柳田は、「日本人はどこから来たのか」という問いを発し、そのルートを南方に求めた。日本人の先祖は、中国で貨幣とされた宝貝を求めて宮古に渡り、やがて島伝いに稲作が伝わったと論じた。一方、1959年に沖縄を訪れた岡本太郎は、1961年に『忘れられた日本 沖縄文化論』を出版し、「沖縄の中にこそ、失われた日本がある」と説いた。
同じ年、奄美大島に住む作家・島尾敏雄が、「ヤポネシアの根っこ」という論考を発表した。彼は日本列島を「ヤポネシア」と名付け、大陸とのつながりではなく、ミクロネシア・ポリネシアに連なる「ネシア文化圏」に位置付けるようとした。この議論は、1960年代後半から1970年代にかけて広く波及し、沖縄復帰をめぐる言説に大きな影響を与えた。
島尾の「ヤポネシア」論は、日本という国のセルフイメージをめぐる闘争の一環だった。この議論は、日本を国民国家という枠踏みを超えた南洋に開くことで、「単一民族」「単一文化」という幻想を相対化しようとする試みだった。同調圧力が強く、均質的イメージに捉われた日本のなかに多様性を取り込み、本土中心の日本観の相対化を図った。日本列島を、画一化された国民国家・日本から解放することで、もうひとつのあるべき日本を模索するという構想が、「ヤポネシア」論には含まれていた。
島尾は「南島の治癒力」や「やさしさ」を強調した。これは高度経済成長下の日本のあり方への批判であり、近代批判そのものだったが、沖縄を「非近代的」で「神秘的」な存在に囲い込むオリエンタリズムの側面も有していた。
ここで問題にしたいのは、「原日本」という概念である。島尾だけでなく、1960年代の南島論は、沖縄や奄美に日本の古層を見出し、近代化した本土が忘却した「原日本」が南島に生きながらえていると主張した。この「古層」へのまなざしが、南島論と縄文幻想がアクロバティックに接合していく要因となった。
島尾の「ヤポネシア」論は、いかなるプロセスを経て、縄文礼賛論と結合していったのか。縄文左派は、どのように誕生していったのか。
大東亜戦争と南島経験
1917年に横浜で生まれた島尾敏雄は、相馬(福島県)や神戸で育ち、長崎高等商業学校に入学。九州帝国大学で東洋史を専攻し、卒業後、海軍予備学生を志願した。彼は特攻を志願し、第十八震洋特攻隊指揮官として、奄美群島の加計呂麻島・呑之浦基地へ赴任した。
島尾は、奄美の人たちから敬意を集めた。従来の軍人は威圧的で、島民から敬遠されていたが、島尾には細やかな配慮があり、言葉遣いも丁寧だったことから、多くの人の信頼を得ていった。なかには島尾の後ろ姿に手を合わせる老人までおり、彼に対する敬意は高まった。
このころ、島尾は本土から持ち込んだ『古事記』を繰り返し読んだ。そして、その神話世界を奄美の現実のなかに投影していった。
奄美大島は上古の霧にとざされていいた。仏教も儒教もこの島を覆うことができなかったと考えられた。転勤行李の底に私は岩波文庫版の「古事記」を持っていたが、奄美の島の中でそれを読みかえすとそれが古代の書物であることを忘れた。そこに書かれている世界はそっくり島の現実に生きていて、そのときの私たちを包んでいると考えたのだった。
[島尾1973a:62]
そのようななか、島尾は小学校教員の大平ミホと恋仲になった。島尾は、島で生まれ育ったミホに、神話世界を幻視した。彼はミホとの文通に使ったノートの表紙に、「はまよはゆかず いそづたふ」と書いた短冊を貼った。これは『古事記』の「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ」から採ったものと考えられる。[梯2016:72]
この和歌を詠んだのは、ヤマトタケルの妃とされる。ヤマトタケルが亡くなったとき、妃は白い浜千鳥に、夫の姿を重ねた。「浜千鳥のように、あなたは陸の上を飛ばず、磯づたいに飛んで行くのですね」。ヤマトタケルとの別離を悲しむ思いが、この歌には込められている。
島尾は特攻隊の隊長だった。自らも出撃命令を待つばかりであり、死を前提とした束の間の生が、島での時間だった。1945年6月には沖縄が米軍に完全制圧された。そして、ついに8月13日、特攻戦が発動され、島尾は出撃命令を受けた。
この命令を耳にしたミホは、島尾の出撃にあわせて死の決意を固め、短剣を手に浜で正座をして、出撃を待った。しかし、発進の号令は発せられず、島尾は待機のまま終戦を迎えた。ふたりは、死を目前にしながら、戦後に生の時間を与えられることになった。
島尾は、死にゆく自己と恋仲のミホの存在を、『古事記』になぞらえて、理解しようとしていた。これは奄美の島世界のなかに、古代的なものを投影した視角の延長にあった。南島のなかに、神話的な「原日本」を見出すまなざしは、島尾の思想の土台となって定着していく。
「治癒」と「救魂」
戦後、島尾は実家のある神戸に戻り、文学活動を開始した。そして、島からミホを呼び寄せ、結婚した。1952年には、夫婦で東京に引っ越し、作家活動を活発化した。
このころ、島尾のもとに無名の詩人から自著が届いた。その詩人は、吉本隆明(よしもと・たかあき)。周知のとおり、のちに戦後最大の思想家と呼ばれる人物で、島尾とは生涯を通じて交流を深めた。このころは詩集『固有時との対話』を自家版として出版したばかりで、まだ無名の存在である。1954年6月、島尾は吉本や奥野健男(おくの・たけお)と共に『現代評論』を創刊する。ここに吉本が掲載したのが「マチウ書試論」で、彼の批評家としての重要な起点となった。
島尾は『おきなわ』1954年10月号に、「『沖縄』の意味するもの」というエッセイを寄稿している。
ぼくが興奮したのは、ちっぽけなこの日本の国のなかに、やっと辛うじて見出すことのできた、何かわくわくするような桃源郷の気配を感じたからに外ならない。
この日本の国の、眠くなるような自然と人間の歴史の単一さには、絶望的な毒素が含まれている。
桃源郷などといえば誤解を招くが、ぼくがいいたいのは、もうわれわれには見失われてしまった「生命のおどろきに対するみずみずしい感覚」をまだうそのように残している島が、この不毛の列島の中に残っていたということだ。
[島尾1973a:7]
島尾は沖縄を「桃源郷」と見なす一方で、本土の生活には「絶望的な毒素が含まれている」と論じている。本土は「不毛の列島」である一方、沖縄は「われわれには見失われてしまった「生命のおどろきに対するみずみずしい感覚」をまだうそのように残している島」とされる。
大切なものを見失い毒素にまみれて生きる本土人と、プリミティブな生命観のなかに生きる桃源郷の南島人。
この二項対立の認識は、南島を離れたことで、より強化され、島尾のなかに固着していった。
島尾が東京での生活に、「絶望的な毒素」を見出したことには訳があった。彼は別の女性と浮気をし、そのことがミホに発覚したことで、泥沼状態に陥っていた。のちに島尾の代表作となる『死の棘』に詳述されることになるが、ミホは精神的病を患い、家庭は修羅場と化した。
島尾は、子供たちを奄美大島のミホの叔母に預け、ミホを千葉県市川市の国府台病院に入院させた。島尾はここで介護をしつつ、連日、ミホから激しい責問を受け続けた。この生活に限界を感じた島尾は、家族全員で奄美大島に移住することを決意し、1955年に本土を離れた。このとき、吉本は出港する船を、波止場から見送った。
島尾一家にとって、新たな奄美大島での生活は、欲にまみれた本土生活からの解毒であり、「治癒」そのものだった。島尾にとって、奄美大島は人間性を回復する「救魂の場所」と捉えられた。
移住後の島尾は、奄美の歴史や習俗に強い関心を抱き、独自の調査を繰り返しながら、文章を発表していった。彼は移住から5年後の1960年に『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』(未来社)を出版し、奄美での見聞を発信した。
島尾が強調したのは、奄美・沖縄が、中国大陸からも日本の本土からも距離があったことで、近代人が見失った「あたたかさ」や豊饒な文化を残しているという点だった。彼はこの島々を『日本書紀』に倣って「南島」と呼び、その生活者として、経済成長にまい進する日本を見つめ直そうとした。[島尾1973a:244]
島尾にとって、奄美大島は「異郷」に他ならなかった。しかし、その「異郷」が究極の「故郷」へと反転することで、現代日本を相対化する視点を獲得した。南島は、現代社会の「異郷」であり、近代人としての自己反省を迫られる場所だった。「異郷」に溶け込むことで、「魂の故郷」への回帰を果たすというのが、島尾のスタンスだった。
「ヤポネシア」論
島尾は1961年、「ヤポネシアの根っこ」という文章を発表した。彼はここで、「日本や日本人が何であるかを知りたいという思い」が「私をとらえてはなさない」と言い、その基層を南方に求めた。[島尾1973b:65]
島尾は、これまでの日本論は大陸からの影響にばかり目が向けられてきたことに疑問を投げかけたうえで、自らの直感として、南太平洋に開かれた南方とのつながりを感じずにはいられないと述べる。
海を越えた南の方からはたらきかける深いところからの呼びかけが感受される。
[島尾1973b:66]
島尾は「覆おうとして覆うことのできない海からの誘いが、足もとの方から立ちのぼってくる」と述べる[島尾1973b:66]。彼の足もとにあるのは、奄美の大地であり、南方の島々である。この足もとから、南の島々とのつながりが立ちのぼってくるという。
彼は奄美での生活で、根源的な体験を繰り返してきた。それは「民謡の旋律や集団の踊りの身のこなし、会釈の仕方とことばの発声法等」に現れた「複合の生活のリズム」であり、そこには大陸の影響では語れない土着性がある。
それは異国のそれではなく、本土ではもう見つけることは困難になってしまったとしても、遠くはなれた記憶の中でひとつに結びつくような感応をもっているとしか思えないものだ。
[島尾1973b:66]
島尾は、ここに日本の「もうひとつの顔」を見出す。奄美をはじめとした「南島」には、日本列島に生きる人々の「根っこ」の部分が残っており、それが「遠くはなれた記憶」を呼び醒ます。そして、その「感応」のなかにこそ、日本人の本質へと至る「手がかり」があるのではないかと提起する。
頭からおさえつけて滲透するものではなく、足うらの方からはいあがってくる生活の根のようなもの。この島のあたりは大陸からのうろこに覆われることがうすく、土と海のにおいを残していて、大陸の抑圧を受けることが浅かったのではないか。
[島尾1973b:67]
島尾は、南島の土着性のなかに、南太平洋の島々と連なる「深層」を見出す。それは「足うらの方からはいあがってくる生活の根のようなもの」であり、頭で理解する大陸由来の日本とは異なる。足うらで感じる「深層」は南島と連続性のなかにあり、この連なりを「ヤポネシア」と名付けてみたいという。
おそらくは三つの弓なりの花かざりで組み合わされたヤポネシアのすがたがはっきりあらわれてくるだろう。そのイメージを私は鼓舞する、奄美はヤポネシア解明のひとつの重要な手がかりを持っていそうだ。
[島尾1973b:67]
その地帯(沖縄や奄美、先島を含めた地域-引用者)にヤポネシアの根っこが残っていると考えることは大きな見当はずれではなかろう。そして日本の、南太平洋の島々のひとつのグループとしての面を考えることは、かたくしこってしまった肩のぐりぐりをもみほぐしてくれるにちがいない。
[島尾1973b:67-68]
島尾はここで日本を「広大な太平洋の南のあたりにちらばった島々の群れつどいの中」に位置付けた。そして、沖縄や奄美の島々にこそ「ヤポネシアの根っこ」が残っていると論じた。
重要なのは「根っこ」という表現である。彼は、「根っこ」を失った現代日本を批判し、その一方で「根っこ」を残す南島への回帰を訴えた。これは「ヤポネシア」という空間論であるとともに、「根っこ」という時間論でもある。
日本の深層は、大陸からの影響などによって隠され、表層には姿を現さない。しかし、その「根っこ」には、共通する土着性が潜んでいる。現代日本はそのことに無自覚だが、南島には、生活のなかに「根っこ」が息づいている。「根っこ」は、ミクロネシアやポリネシアと繋がるものであり、かつ太古の歴史と繋がるものである。
古代の生活が息づく南島
島尾のヴィジョンは、徐々に輪郭を帯び、南島と古代が結びついていった。彼は、1962年6月13日に「私の見た奄美」という講演を行っているが、ここでは「ヤポネシア論」が空間論ではなく、時間論として構想されていることが明確になっている。
島尾は「日本の中には、ある固さがある」と感じるという。それは日本人全体に共有されている「硬化したもの」で、それが「日本人というものを狭くしているよう」だという。しかし、その「固さ」は「南に来ると、あまり感じられない」。南島に住んでいる人たちのなかには「固さ」を超えた「やわらかな、なにか」がある。[島尾1973b:81]
島尾は「固さ」のひとつに「武士道」があるのではないかと提起する。しかし、武士道は「日本民族が本来持っていたものではなく、途中からできあがってきたもののような気が」する。中国の儒教や禅宗などの影響によって構成されたものであって、日本の深層にあるものではない。[島尾1973b:82]
この「固さ」が南島にはないと、島尾は捉える。この認識が、南島の生活と古代の連続性に繋がっていく。
武士的なものは、日本の長い歴史の中でその途中にできてきたのですが、南島はそれより前の部分につながっているのではないかと考えるわけです。
別の言い方をすれば、南島の人たちの中には、あの古い時代の人間生活が持っているものをわりにそこなわないで残したのではないか。
[島尾1973b:82]
奄美は武士道的なものを素通りしてきた。大陸からの影響を大きく受けず、文化の基層を生活や精神のなかに残してきた。奄美は「古い、大むかしの状態から中世、近世の充実なしにいきなり近代にはいってきたようなところ」がある。[島尾1973b:82]
古い時代の状態が、近代にはいってまで持ち越されたのではないかということを、文学的に感じているのです。
[島尾1973b:82]
現代は、「古い時代」のものを「野蛮」と捉えがちである。時代が新しくなると、文明が進歩し、生活が改善されていくと見なされている。歴史の授業では、「古い時代」を否定的にとらえ、克服の対象としてきた。古代人には「人間らしい気持ちなどない」と理解されて来た。しかし、この見方はおかしいのではないか。現代人のおごりがここに現れているのではないか。[島尾1973b:83-84]
島尾は、南島に残っている「深層」を掴み直すことのなかに、現代文明の問題を克服する手がかりがあるのではないかと示唆する。
本土のほうでは、この南太平洋的な生活状況がしだいになくなって来ています。表面は! しかし、われわれの心の奥底にはそういうものが眠っておりますから、ときおり唐突に異容な様相で噴出してきます。本土のほうでは、表面的には、南太平洋的な生活はなくなってそんなふうですが、この南島地帯にはまだ残っていて日常の顔つきを保っています。
[島尾1973b:93]
南島の生活のなかに古代を見出す姿勢は、時代を追うごとに顕著になっていく。1965年に発表された「奄美 日本の南島」では、次のように述べられている。
ナイーブな生命力のようなものが、この琉球列島の島々の生活にはひそみ、人々の挙措のあいだに、日本本土では忘れられたしまった「やさしさ」を、見つけだすことができたのである。誤解をおそれずにいえば、この島々には近代の文明に毒されない中世もしくは古代の人間まるごとの生活が息づいていた。
[島尾1973b:196-197]
南島には、本土が忘れたものがある。「近代の文明に毒されない中世もしくは古代の人間まるごとの生活」が残っている。これが南島の「やさしさ」であり、高度経済成長下の本土に欠如しているものである。
古代と連続するヤポネシアという構想は、このあと、時代の寵児となった思想家と呼応することで、影響力を拡大していく。
吉本隆明の南島論である。
【引用・参考文献】
岡本恵徳 1990 『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』沖縄タイムス社
梯久美子 2016 『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』新潮社
島尾敏雄 1973a 『島尾敏雄非小説集成 第1巻 南島篇Ⅰ』冬樹社
____ 1973b 『島尾敏雄非小説集成 第2巻 南島篇Ⅱ』冬樹社
鈴木直子 1997 「島尾敏雄のヤポネシア構想-他者について語ること」『國語と国文学』74巻8号
____ 1999 「1960年代の沖縄表象と島尾敏雄の『ヤポネシア』」『神奈川大学評論』34巻
筆者について
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。