紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!
完全に受動的になってしまっているひとはかわいい。
たとえばエスカレーターに乗っているひと。みんなそれぞれの表情で、それぞれの仕方でぼうっと運ばれている。小さいころから好きで、よく駅ビルやデパートでエスカレーターの近くに腰掛け、いつまでも眺めていた。みんな、自分がどこへ向かっているのか、何も知らないような表情で乗っている。
彼らは、きょとんとした顔でおとなしい。たまにきょろきょろと周りを見渡して、だが慎ましく従順である。一列に並んで、自分を機械に運ばせている。
だが、そうした受動的な状態をかわいいと思う自分のまなざしに、ときおりぞっとする。おぞましさを感じる。それは従順さを愛玩する抑圧的な欲望なのではないか、と何かがささやく。
無抵抗なひとはかわいい。本当にかわいいのだ。
*
先日、煙草くさい喫茶店で友だちと会った。店内にはまばらにひとがいたが、誰もが各々の思考に忙しそうで、互いのことに興味がなさそうに座っていた。
「昨日デカルトの『省察』を読んでいたとき、急に思ったんですけど」と友だちは言った。
「“人生楽ありゃ苦もあるさ”って、本当にそうなんですかね?」
わたしは、友だちの言葉を聞きながら、学部生のころに読んだ『省察』のことを思い出していた。喫茶店にかかっている音楽の音量が大きくて、あやふやになる過去をたぐりよせる。何もかもを疑おうとしたデカルト。神を探しまわるデカルト。目の奥で、昔の記憶をよみがえらせていると「いや、デカルトは全然関係ないんですが」と友だちは言った。関係がないのか。だがそういうことはよくある。わかる話だ。
「人生、楽だけでもいいじゃないですか?」
友だちは真剣だった。このひとはいつも笑っているが、いつも真剣なのだ。わたしは彼のそういう部分を尊敬している。「苦があるということを、あきらめてますよね」。相変わらず、まだにこにことしている。だがもしかすると怒っているのかもしれない。それはわからない。
とはいえ、人生には苦があるのだ。疑いようのない、事実なのだ。楽があれば苦があるのだ。そういうものなのだ。だが、彼はそれに抗おうとしていた。
抗うとは何だろう。問いがやってきて、すとんとわたしの隣に座った。
どこかにも書いたことがあるが、高校生のころわたしはルールや言いつけを守ることに熱中していた。そして、どうしようもなく意味がなく空疎なものであればあるほど、それを守り抜くことにこだわった。
誰にも知られず、古ぼけた校舎の片隅の、誰も使わないような教室の床を雑巾で拭き上げるとき、ペットボトルで水を飲むことを我慢するとき、規程の長さにスカートを合わせるとき、起立・礼を丁寧におこなうとき、わたしは快感だった。なぜなら、わたしはこれのバカバカしさを心から理解しながら、完璧にそれを守っていたからだった。ルールはわたしを縛っているように見えて、縛ることはできなかった。わたしはこれを腹の底で従わないと笑いながら従うことで、わたしの人生のただの選択のうちのひとつにしたのだ。
「これこそが反抗だ」と17歳のわたしは考えた。誰よりも従順に、だが反抗するということをわたしは誰にも知られずに楽しんだ。
わたしは抵抗をしていたのだろうか?
*
デモに行く。当たり前のようにデモに行きたい。デモがこわいと思いながらデモに行きたい。デモとは何だろう?と思いながら、デモに行きたい。そして、人々と集うことで、互いがばらばらのまま、共にあるということを試みたい。
たくさんの人々がそこにいた。マスクで顔をほとんど覆っている。数年前のデモとは異なって、みな黙り込んでいた。ほんの少しずつでも距離をとりあって、ぽつりと立っていた。あなたは「戦争反対」というプラカードを手に持っていた。あなたは「NO WAR」と書かれた紙をにぎりしめていた。
あなたと声を合わせたくはない。そうではなく、あなたと考えるためにわたしはここに来た。ここに来ていないあなたとも考えるために、わたしはここに来た。あなたもきっとそうだろう。
わたしたちは抗っていたのだろうか?
電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから
『水中翼船炎上中』穂村弘 / 講談社 / 2018年
学生のとき、電車でペットボトルの水を飲むなと言われた。「品がない」と先生は言った。わたしたちは水筒の水をごくごく飲んだ。ごくごく、ごくごく飲んだ。電車で足を組んで座るなと親に言われた。電車で化粧をするなと駅のポスターに言われた。電車で通話をするなと車内アナウンスで言われた。
しかしこの詩は、わたしたちにセックスをせよと言う。システムの外側で、エネルギーを燃え立たせよと命じている。そして、この詩はかなしい音をたてている。戦争へ行くのはあなたではなく、わたしたちだからだ。だが、本当にわたしたちだけなのだろうか?
戦争をしているっていえば、おれたちはみんなしているんだ。おれが手を挙げ、葉巻を吸う、おれは戦争をしている。サラが男たちの狂気を呪い、パブロを腕に抱きしめる、彼女は戦争をしている。オデットがハムサンドを紙に包むとき、彼女は戦争をしている。戦争がすべてを捉える、すべてを拾い集める、何も逃しはしない、思考でさえも、身振りさえも、それなのに誰にも戦争は見えない[……]。
『自由への道 4』ジャン=ポール・サルトル / 岩波文庫 / 2010年 / 251ページ
戦争はすべてを飲み込んでいく。わたしたちの日常の所作、コンビニで買ったコーヒーの蓋を閉めるその手つき、PCのキーボードを叩く爪の音、ハッピーデー5%オフの旗のはためき、見知らぬひとのスーツの埃っぽいにおい、すべてを拾い集める。
だが、その戦争を誰も見ることはできない。それをはじめたひとさえも。
まちを歩く。公園がある。中心部に「平和」と書かれたモニュメントがある。そのまわりを子どもたちが走っている。くたびれた大人がサンドウィッチをかじっている。風が吹いて、砂埃が少しだけ舞う。母親らしきひとが「約束守れないなら、もう来ないよ」と子どもに声を投げかけている。わたしは公園に入り、土でうっすらと汚れた平和という字を見上げる。わたしはここにいる、誰のことも知らない。
ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね
『感電しかけた話』伊舎堂仁 / 書肆侃侃房 / 2022年
ある午後の道端で、友だちにこの詩を見せる。「いいですね」と友だちは言う。「豆乳鍋食べてますから」とわたしが言う。「意味ない」とまた友だちが言う。
豆乳鍋を食べているひとはかわいい。だが、かわいくない。抵抗しているからだ。豆乳鍋を食べることで、反抗しているからだ。わたしはいつも豆乳鍋に、豆腐と油揚げを入れるのだった。それはもはや大豆鍋と呼んだほうがいいかもしれないし、そうではないかもしれない。
わたしたちはとぼとぼ歩く。西日が目に入ってまぶしくて、少しだけ目を閉じて歩く。あなたは若くて、男性で、そうか、いざとなったら戦争に行くのか、と思う。冷たい風がどっと吹いて「さむい」とあなたは身をこわばらせる。
あと何回豆乳鍋を食べたら、このひとは戦争に行かなくてすむだろうか。
抵抗とは、どのようにして可能なのかと、またとぼとぼと歩きながら考える。きっぱりと表明すること、最前線に躍り出ること、ひとと集まること、考えること、笑いながら従うこと、公園に座ること、豆乳鍋を食べること。どれも抵抗と呼んでいいだろうか。
抗うとは、そうでない仕方であろうとすることかもしれない。どんなにわかりにくくとも、そのままで身を委ねないようにもがくことなのかもしれない。
そうであるならば、問うことは、それ自体として反抗的である。本当に?と口からこぼすこと、なぜ?と思うこと、それはすでに抵抗なのだ。とまどい、混乱して、言葉を選びかねていたとしても、それは無抵抗さとは決定的に異なっている。
寝そべることもそうだ。わたしたちは意識して寝そべる。抵抗として寝そべる。大きい声につられて走り出さないように、般若の顔をして寝そべる。むずむずと走り出したくなる足を抑えて、はいつくばる。そして、弱々しくとも、まとまらなくとも、問う。
目を覚ましていなければならない。うっとりとした眠気にさそわれて、頭をぼうっとさせたとしても、苦しみに満ちた現実に目をそむけたくなったとしても、強い光にまぶたを閉じてしまいそうになったとしても、目だけは覚ましていなければならない。
何の意味があるのだと笑われたとしても、目を覚ましていよう。もうすぐ春だ。
筆者について
ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。