『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう…でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい…ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!?「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第2回のテーマは…おせち?
ほんとうに女の子の回答は劣っている?
「ケアの倫理」という言葉を耳にしはじめた頃、何がどう新しいのかはよくわかっていなかった。「思いやりが大切」「弱者にやさしくしましょう」程度のことなら、学校の道徳と変わらない。古臭い儒教にだって、「仁」(思いやりの心)だとか「惻隠の情」(あわれむ心)といった言葉はある。
「ケアの倫理」について納得できたのは、発達心理学者キャロル・ギリガンの『もうひとつの声』 で取り上げられていた「ハインツのジレンマ」の話を読んでからだ。「ハインツのジレンマ」とは、心理学者ローレンス・コールバーグが、道徳性の発達段階を分析するために子供たちに出した例題である。以下、筆者の要約でお伝えする。
「一人の女性が重病で死にかかっており、命を救うには高額な薬を飲むしかない。ところが女性の夫ハインツは薬の価格の半額しか持ち合わせておらず、薬屋にも値下げを断られてしまう。ハインツは薬を盗むべきか否か?」
この問いに、11歳の男の子は「盗むべき」と回答した。「お金よりも人間の生命のほうが尊いから。薬屋はあとでお金持ちからお金を手に入れることができるけど、妻は亡くしたら戻ってこない。法律違反だけど、法律のほうが間違っていることもある」というのがその理由だ。一方で、11歳の女の子は「盗むべきだとは思わない」と回答した。「盗む以外にも、お金を借りるとか、ローンを組むとか、いろいろな方法があると思う。夫が監獄に入ったら奥さんがまた病気になっちゃうかもしれない。そしたら薬は手に入れられないし、どうにもならないでしょ。みんなでよく話し合ってお金をつくるなにか別の方法をみつけるべき。妻の病状をもっと薬屋さんに伝えるとか、助けてくれそうなほかの人にアピールするとか」。
コールバーグが正義の原則が理解できていると評価したのは、男の子のほうである。法律のもつ秩序維持機能を理解していながら、生命の尊重という普遍的かつ論理的な正義に基づいた回答をしたからだ。この回答に比べると、女の子の回答はコミュニケーションに依存した不確実なもので、道徳性や法律の概念について体系的に考えることができておらず、男の子よりも道徳の成熟度において一段階低いところあると評価された。
ほんとうに女の子の回答は劣っている? ギリガンは、コールバーグの評価に疑義をさしはさむ。彼女は未熟なのではなく、コールバーグの考える道徳概念の外側でジレンマをとらえているのではないか、とギリガンは問いかける。女の子はジレンマの登場人物を権利の対立者ではなく、お互いに依存し合うネットワークのメンバーとみている。この女の子とって、道徳の問題とは「生命>財産」というように論理で一義的に解決するものではなく、ほころびたネットワークをケアで修復することで解決するものだ。したがって最適な解決策は、コミュニケーションを丁寧にとることで、そのつど導かれると考える。ギリガンは、正義の倫理からは不確実であるとして無視されてしまうこのような女の子の考え方に、「ケアの倫理」の中核となる見識を見出した。
従来の道徳と「ケアの倫理」の違いは?
このエピソードを読んで、真っ先に思い出したのが、小学生時代の我が子が受けた、ある道徳の授業である。題材となった「手品師」 のあらすじは次のようなものだ。
大舞台に立つことを夢見て道ばたで手品をする貧しい手品師は、母親が働きに出て帰ってこないという母子家庭の少年に手品を見せて喜ばせる。少年から明日も来てくれるかと問われ、必ず来ると答える手品師。しかしその夜、手品師のもとに友人から明日の大劇場での代打を急遽お願いしたいという電話がかかってくる。出世する千載一遇のチャンス。さあ、手品師は大舞台と少年との約束、どちらを選ぶべきか?
この授業を受けた日、長女は納得いかないと不満を爆発させた。「子供との約束をとるか自分の出世を取るかって、そんな極端な二択でなくていい と思うんだよ。だから事情を説明する置手紙を置いて子供をサーカスに招待するって答えた。そしたら先生に両方救うことはできないって言われた! なんで? どっちも救えるのに。明日のパンにも困ってる状況なんでしょ。親友が主人公のことを思ってチャンスくれてんでしょ。だったら出ろよー手品師ー! 長期的な目で見れば大舞台を選ぶべきだよー。孤独死したら男の子悲しむよー」
先生が「両方を救っちゃダメ」と言わざるをえないのはわかる。「手品師」はそもそも、文科省が定めた道徳の内容項目のうちのひとつ「正直、誠実」を教えるための題材だからだ。いくら議論させようが、先生が内心どう思っていようが、正解は「少年との約束を選ぶ」一択だ。先生は子供たちの答えを、国が考える唯一の正解に誘導するよりほかない。
学校道徳がいついかなるときも自分よりも他者を優先すべしというルールに貫かれた「正義の倫理」なら、長女の答えはギリガンのいう「ケアの倫理」そのものである。 さみしい少年のケアは必要だが、飢えている手品師自身のケアだって必要だし、手品師のことを思いやる友人の気持ちをないがしろにしていいはずもない。手品師が孤独死したら少年が悲しむだろうという推論は、「夫が監獄に入ったら奥さんがまた病気になっちゃうかもしれない」という人間関係が相互に依存し合うことを前提とした11歳の少女の回答を思わせる。
少年が明日にも死ぬという重病なら、あるいは似たようなチャンスがいくらでも回ってくるのであれば(あるいは友人に代打をほかに頼める当てがあるのなら)、約束を優先させたほうがいいかもしれない。でも少年だって、手品師の人生を犠牲にしてまで手品を見たいと思っているのかどうか。もしかしたら「用事があるなら児童館でコロコロ読むから別にいいっすよ……」レベルの期待なのかもしれない。手品師がどうふるまうべきなのかは、コミュニケーションを取ってそれぞれの状況と感情を把握しなければわからない。
ケアの倫理と聞くと、「金を稼ぐよりも無償で家事・育児・介護・地域奉仕を担う女性はすばらしい! だから女は賃金や学問なんか求めないでおとなしくケア労働をしていなさいね」という従来の婦徳に回収されそうで、つい警戒したくなる。 だが、ケアの倫理がギリガンの言うようなものなら、ケアの倫理は婦徳や「思いやり道徳」に限定されない、より広い意味を持つのだろう。常に自らの欲求よりも他者・社会・国家を優先することが正解とされる学校道徳と異なり、ケアの倫理においては自分も含めた個々の感情や欲求もケアの対象となる。勤労、誠実、愛国心など過度に一般化されたルールや義務を刷り込む道徳の授業に納得していない人にも、ケアの倫理は開かれた概念になるはずだ。
学校を卒業して何十年経とうとも、「学級委員みたい」を悪口として用いる人が多いのも、学校的な道徳への不信が根を張っているのだと思う。学校では、個人の欲求がしばしば悪徳視される。子供たちのおしゃれ欲、恋愛欲、娯楽欲、休息や快適さへの欲求をとことん抑え込まなければならないと権力層が考えるからこそ、校則はあれほど細かくなり、部活動の拘束時間は長くなるのだろう。個々の感情をかえりみず、一方的なルール、禁止、義務で縛ろうとする道徳への反発は、その手先とみられる学級委員への悪感情として、中高年の心に残り続けているのかもしれない。
欲望を否定する学校道徳への反動で、欲望のままに他者を踏みにじるのが正しさだと考える人も少なくない。元従業員らからパワーハラスメントで提訴された60代社長が、ハラスメント対策を口にする人を「モラル憲兵」と呼ぶメールを周辺関係者に送っていたことを報じる記事を読んだときも、「道徳」への反発心がハラスメントにつながったのではないかと感じられた。子供の自然な欲望をケアしない学校道徳にも、道徳=モラルへの反発心から思うがままに他者に威張り散らす中高年にも、ケアの倫理は不在だ。
学校道徳や婦徳とケアの倫理をわかつもの、といえば、それは他者とのていねいなコミュニケーションということになるのだろう。ぼんやり人間としては、これまた苦手な分野である。
完璧なおせちって必要?ケアの倫理=コミュ力重視で解決!
ところで、小学校3年生向けの道徳の教材に「おせち料理を知っていますか?」というものがある。文科省が定める道徳の内容項目「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」を教えるための教材だ。道徳や婦徳に従えば、かずのこや昆布巻きには日本人の願いが込められているのだから、日本の伝統を尊重し、我が子の愛国心をバリバリにブーストするためにも、二児の母たる私はおせちを完璧に作らなくてはいけないのだろう。
確かに、かつては私も実家から譲り受けた三段の重箱がぱんぱんになるくらい大量のおせちを作っていた。しかし最初に作った煮しめは、誰にも食べられないまま冷蔵庫で糸をひくことになった。根菜の煮物は家族の誰も好きではなかったのだから、当然の結果である。ごまめ用の小魚を全部使ってごまめを作ったときは、ほんの少ししか減らなかった。甘辛く煮た小魚など、そんなに大量に食べるものではないのだ。それなら、と松風焼などの目先の変わった肉料理のレシピを探して挑戦してみた。結果、すべて一人で食べた。見た目が難解な食べ物に挑戦する剛の者はいなかったのだ。
もしかしたら、私の料理が拙いせいかもしれない。私が忙しくなったこともあり、ある年から冷凍おせちを夫が買うようになった。それでも子供たちはあまり手をつけない。
そもそも、なぜ私はかたくなにおせちとお雑煮を用意しようとしているのか。日本の伝統を守るため? 我が子の愛国心をブーストするため? いやいや、単にお正月はいつもと違う食べ物でテンションを上げたいだけである。別にお雑煮なんていつだって食べられるはずなのに、あえて三が日に限定することでスペシャル感を出したいというストイックなお雑煮への思いが私をかきたてる。おせちは、お雑煮を引き立てるアゲ感があればいい。そう、重要なのは家族全員のアゲ感である。
ケアの倫理の観点からいえば、ジレンマはコミュニケーションを活性化することで解決するはずだ。そこで子供たちにおせちについて詳しく聞いてみると、「かまぼこと黒豆だけでいい」「おもちのお雑煮があればいい」「そもそも冷えた料理があまり好きではない」という答え。夫も「かずのことか昆布巻とか、いる?」そういえば子供時代の私も、かまぼこと黒豆とお雑煮しか好きではなかったっけ……それなら、家族が食べたいものだけ用意すればいいのではないか。 何より忘れてはならないのが、そんなにおせちをがんばりたくない、思う存分怠けたいという私自身のケアである。
そういうわけで、今年のお正月料理はかまぼこと黒豆をぎっしり詰めた大雑把な重箱一段にお雑煮だけで済ませた。親がのんびりしつつ子供たちが好きな時に温かい料理を食べられるよう、大量に冷凍食品を用意して。お正月のうかれ感と家族全員の要望をともに尊重する、ケアのおせちの爆誕である。おかげで何も残されないすがすがしいお正月を迎えることができた。個よりも日本の伝統を優先する学校道徳にとらわれていたら、子孫繁栄を願うかずのこが残って、卵を奪ったニシンに申し訳ない気持ちになっていたかもしれないし、「昆布巻き」⇒「こんぶ」⇒「よろこんぶ」⇒「喜ぶ」だからさあ喜べ!という無理がありすぎるダジャレを押し付けて嫌われていたかもしれない。実にあぶないところだった。コミュニケーションは相変わらず面倒くさいけれど、引き続きケアの倫理を追究していこうと思う。
【お知らせ】
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筆者について
ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。