『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう…でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい…ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!?「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第1回は大ヒット漫画・アニメ『鬼滅の刃』の大人気キャラクターと映画『ビルド・ア・ガール』から学ぶ、冷笑文化からの卒業です。
愛される「学級委員的」キャラクター、竈門炭治郎と胡蝶しのぶ
若い頃、初めて会った仕事相手の方に「学級委員みたいで怖そうだと思ってたんですよ」と言われたことがあった。あわてて「学級委員なんてとんでもない。私は校庭に転がっているコーラの空き缶に蟻が行列を作っているのを授業中ずっと眺めているようなぼんやり者だったのです」と否定した。なぜ私は初対面の人にしょうもないカミングアウトをしているのか? と一瞬我に返ったものの、相手の表情が警戒から共感に変わっていくのがわかった。
しっかり者で他人のケアができる心の余裕があり、弱い者いじめがあれば助けに行き、不正にははっきりと意見する。学級委員は、他人のケアどころか自分のケアさえままならなかった私のようなぼんやり人間には到底務まらない、人間のステージが高そうな仕事である。にもかかわらず、「学級委員みたい」という言葉には、どういうわけか必死に否定したくなるような好もしからぬ響きがあった。「ケアをする者」は学校や家庭で重用される一方で、同年代からは退屈で面白味に欠ける存在だとみなされていたせいだと思う。
ところが最近の子どもたちの間では、「ケアをする者」の人気が非常に高いようなのだ。
1位 竈門炭治郎(鬼滅の刃) 618票
2位 お母さん 393票
3位 胡蝶しのぶ(鬼滅の刃) 315票
4位 先生 229票
5位 お父さん 171票
これはベネッセコーポレーションが小学3~6年生を対象に実施した「小学生が選ぶ!2020年 憧れの人物ランキング」のトップ5である。当時の報道では、トップ10名中『鬼滅の刃』キャラクターが7名を占めていたことが強調されていた。それほどの人気コミックの主人公に次いで憧れられてしまう「お母さん」のコンテンツ力の高さに驚かされるが、それはさておき「お母さん」を除けば、今どきの子供が一番憧れる女性は胡蝶しのぶなのだ。
小さな女の子たちに胡蝶しのぶが大人気なのは、公園や近所の保育園を眺めていてもわかった。胡蝶しのぶの羽織柄が印刷された服や蝶の髪飾りを身に付けた女の子たちを目にしたのは一度や二度ではない。2021年度入学の女児のランドセルカラーランキングで、それまで人気だった赤とピンクをさしおいて初めて紫・薄紫が初めて一位になったのも、紫がメインカラーの胡蝶しのぶ人気によるところが大きいだろう。
「柱の中で唯一鬼の頸が斬れない剣士」である彼女は、鬼化しているときの禰豆子や筋肉の密度が常人の8倍という設定の甘露寺蜜璃らに比べると、強さの面ではやや劣る。医学・薬学の知識に長けているという強みはあるが、それだけなら美貌の医師・珠世も負けていない。鬼滅の刃ファンの子供に聞くと、胡蝶しのぶの人気の理由は「長女属性」にあるという。しのぶには亡くなった姉がいるので実際には長女ではないのだが、要は「ケアをする者」ということなのだろう。
胡蝶しのぶは広い邸宅(蝶屋敷)を治療所として開放し、負傷した隊士の面倒を一手に見ている。看護師として働く少女剣士たちを妹のようにかわいがり、孤児の保護も行う。若手を育てる際も結果だけを見るのではなく、努力の過程を観察してほめたたえ、それぞれの個性に合わせて奮起させる言葉を選び、悪いところは叱る。ケアをする女性といっても、裏方に徹するけなげな女子マネージャータイプではない。これほどの尽力の原動力となっているのは、敵への主体的な怒りである。捨て身で戦い、口調こそふんわりしているが、敵に対して「気色悪いので名前呼ばないでください」などとかなりはっきり物を言う。
そしていうまでもなく、主人公の竈門炭治郎も「長男属性」、すなわちケアをする者である。弟妹達の面倒を見、鬼滅隊に入ってからは他の隊士のためにおいしいご飯を炊き(炭焼きの家の子なので火加減が絶妙)、落ち込んでいる人がいれば慰め、裏方スタッフにも感謝の言葉を欠かさない。『鬼滅の刃』キャラで学級委員を選出するなら、面倒見がよく、悪さをハキハキ叱る炭治郎と胡蝶しのぶが2トップとなるであろうことは想像にかたくない。今の子どもが憧れるのはケアと強さを兼ね備えた人間だと考えると、鬼滅キャラ以外にランクインしたのが「お母さん」「先生」「お父さん」であるのも理解できる。現実に存在する「ケアをする者」といえば、確かにこの順番になるだろう。
私が少女時代を過ごした1980年代に同種のアンケートが取られていたら、と想像してみる。おそらくスポーツ選手や芸能人の名が挙がっただろうし、「お母さん」が上位に来ることはなさそうだ。特に「お母さんに憧れている」などと口にする男子小学生は、相当レアだろう。日本全体が貧しく、子供も家の仕事をするのが当然だった時代であれば、母は確かに尊敬の対象だったかもしれない(1950年代の少年たちに絶大な人気を博した少年剣士のラジオドラマ『赤胴鈴之助』の主題歌には、「いちばん星は母によく似たきれいな瞳」という歌詞がある)。しかし母の専業主婦化が進んだ高度成長期以降の少年文化では、すでに「お母さん」は疎ましい退屈な存在として描かれていたように思う。「教育ママ」「ママゴン」という流行語が生まれたのもこの時代だ。少年たちに期待されることが家の仕事ではなく、「将来経済的な成功を収めるために勉強やスポーツの競争に打ち勝つこと」になれば、母の仕事は息子が競争に専心できるように身の回りの世話をし、管理することになる。ケア労働を知らずに育った世代の人間からすれば、学がなく社会的な成功も収めていないのに自分を勉強へと追い立てる管理的な母は、蔑みと甘えの対象でしかなかったのかもしれない。家族と作業を分かち合わなければ、同じ競争を生きる仲間や競争の勝者への憧れのほうが、親を敬う気持ちよりも強くなるのは必然だ。
白状すれば、当時の価値観にどっぷり浸かっていた子ども時代の自分も、「お母さん」はつまらない、ケア労働で一生を終えるなんてまっぴらだと感じていた。長女で兄弟の中で唯一の女である自分だけが幼稚園に上がる前から家事手伝いを任じられ、しばしば不出来をなじられていたことも、その一因ではある。昭和の庶民家庭に育った少女にとって、ケア労働とは「女であれば幼児であっても自然な本能でできるものとされ、できなければ容赦なく人格攻撃にさらされ、できたところで別に褒められもしない」あまりにやりがいのない営みだったのだ。当時女性に開かれていた数少ない職業がケア関連ばかりであったことも、逃げ場のなさを感じた。大人になったらケアに追われて大好きな読書ができなくなってしまうのが怖かった。
ケアのできる人=かっこいい!の時代へ
そんな風にケアへの苦手意識を植え付けられた私にとって、ケアが性別問わずかっこいいこととされている新世代の価値観はまぶしく映る。でも、ケアを婦徳から切り離してみれば、生活力があり、困っている人がいれば考えるより先に身体が動く人がかっこいいのは、実に当たり前のことだ。
見下されていたケアの可能性にいち早く注目した医学書院「シリーズ ケアをひらく」の編集者である白石正明氏は、困っている人に「すぐ手を出せる」看護師のすごさについて言語化したいというのが、同シリーズを始めた理由だとインタビューで語っている。
というのは、看護師さんって医療ヒエラルキー的には見下されやすいんですよね。たとえば、若い医師が看護師に向かって「もっと論理的にしゃべってよ」みたいなことを平気で言ったりする。それに非常にムカついていたっていうのが、初発の動機です。
(略)
でも、「すぐ手を出せる」ことのすごさって、あまり言語化されていなくて、それが悔しかった。考えてみれば、人間の人間たるゆえんはその社会性にあるわけですから、倒れている人がいたら手を出すって、社会的動物として極めてプリミティブかつ高貴な行為ですよね。僕自身は電車の中なんかで具合の悪そうな人がいても見て見ぬふりしがちなタイプなんで……だから余計、それを簡単にやってしまえる人って要するに人間としてずっと格が上なんじゃないかという思いが強いんです。
「ケアが語られる土壌を耕す 編集者・白石正明に聞く」聞き手・丸尾宗一郎(『群像』2021年8月号)
最近鑑賞した青春コメディ映画『ビルド・ア・ガール』(2019年)も、見下されていたケアの復権をめぐる物語のように感じられた。
舞台は90年代前半のイギリス。公営住宅に暮らす主人公のジョアンナは、予想外の双子の出産で鬱になった母を助け、幼い弟たちのケアも自然にこなす5人きょうだいの長女である。彼女の部屋にはブロンテ姉妹、『若草物語』のジョー、『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア、シルヴィア・プラス、マルクス、フロイトといったクラシカルな文化人の写真がびっしりと貼られている。優しかった母の代わりに彼女の心のケアをしてくれるのは、ジョアンナの空想の中で語りかけてくれる彼らだ。貧しい彼女がポップカルチャーに疎く、文学を好むのは、図書館で予約待ちをせずに済むからでもある。
性的関心が高まるお年頃になっても、彼女の文才や弱い者をケアする力は、同年代の男子に評価されることはない。弱者を笑いものにして自分の強者性を見せつけることを競い合うオラついた男子に支配される学校では、貧乏子だくさん家庭のジョアンナは、ただのイケてない女の子でしかないのだ。こんな場所を出て認められたい!(そして性交したい!)という爆発しそうな自意識を抱えた彼女は、ローリング・ストーンズすらろくに聴いたことがないのに、兄の勧めで音楽ライターを目指すことになる。ロック批評誌の編集部は完全なる男社会。当初は小バカにされるジョアンナだが、ド派手なファッションに身を包んだドリー・ワイルドという強キャラを装うことで、ライターの仕事を獲得していく。
慣れない特集の仕事をこなす過程で、ジョアンナはダブリンのロックスター、ジョン・カイトに出会う。初めての飛行機に舞い上がって空の上の世界を詩的に語り、重たい『ユリシーズ』をリュックにしのばせる無邪気な文学少女をジョンはなぜか気に入り、手を引いて一緒にステージに上げる。ジョンの悲しく美しい音楽に心を打たれたジョアンナは、なぜあなたの歌はあんなに悲しいのかと率直に尋ねた。母が病死したとき、自らの悲しみを押し殺して残された幼いきょうだいたちを慰めなければならなかった悲しい思い出を語るジョン。ジョアンナも秘密を聞かれ、優しかった母が育児鬱になってしまったさみしさから文章を書いていると打ち明ける。まだ子供なのに母のケアを失い、ただケアをする者となった孤独を初めて他者と共感し合ったジョアンナは、完全に恋に落ちてしまう。だが、彼女が書いたジョンの特集記事は没になる。ジョンに心酔し、詩的な比喩を駆使して礼賛するジョアンナの文章は、いかにも少女的で、批評ではないとされてしまったのだ。数少ない本物以外の寄生虫にナパーム弾を投げつけて駆逐するのが自分たち音楽記者の仕事なのだと諭されたジョアンナは、毒舌ライターとなることで、男性と同等だと認めてもらおうと考えた。比喩の力を巧みに使ってさまざまなバンドをこき下ろす冷笑的な批評はたちまち物議をかもし、彼女は売れっ子になってゆく。
文章を評価されるために「ケアをする者」としての自分を封印したジョアンナは、家族で分担していた家事も「私の才能の無駄遣い」と言ってサボり出す。自分の稼ぎで養っているのだという傲慢さから、家族を馬鹿にし、ないがしろにするようになる。ケアを見くびり、ネオリベ的な価値観に染まっていくジョアンナ。しかし男性記者たちは彼女の話題性を利用しても、内心では自分たちの仲間だと認めていたわけではなかった。やがて大切な人たちを大きく傷つける事態を招いた彼女は、ようやく自分の間違いに気づく。ジョアンナは傷つけた人たち全員に謝罪し、批評誌から離れ、女性編集長のカルチャー誌に売り込みをかける。ケアと文学愛を両立する新しい自分を作り直すために。
実に身につまされる映画だった。ケアの世界からもっと面白い世界に出たい一心で東京の大学に進学し、90年代の冷笑的なカルチャーに染まろうとしても、女である自分は冷笑される存在にすぎないと幾度となく思い知らされた経験が自分にもあるからだ。
『ケアの倫理とエンパワメント』(小川公代)によれば、「正義の倫理」とは異なる「ケアの倫理」を提唱する発達心理学者のキャロル・ギリガンが著書『もうひとつの声』で展開しているケアの倫理論の鍵概念は「思いやり」(care)と「責任」(responsibility)であるという。他者を傷つけないという責務をまっとうすることも、ケアの倫理の根幹にある。そのため、ケアの倫理では、親密な人間関係にみられる「没入」や「共感」が重視される。「ケアをする者」であったジョアンナは、まさに「没入」「共感」を文章の仕事に持ち込み、女性的だと笑われていたのだった。
ケアとは退屈な「お母さん(女、学級委員、オバサンetc…)」のする行為であるから、面白いことをしたいなら、ケアとは正反対のこと、つまり他者を冷笑し、差別し、傷つけなければならない。映画の舞台になったイギリスに限らず、90年代の日本の一部でもそのような文化が存在していたように思う。
冷笑文化からの卒業と「技術」としてのケアの獲得
仲間以外の他者を人間扱いしない冷笑文化は、多様な属性の人々がそれぞれに人格を持った人間としてフラットに発信する現代のSNSにはなじまない。軽やかで不謹慎な面白発言をしたつもりが、センスが死んでいる無礼で不愉快な中年として煙たがられるなんて、想像するだに恐ろしい。センスが死んでいるのは仕方がないが、人間の尊厳はまだまだ保っていたいのである。ケアとカルチャーを相反するものであるようにとらえていた自分の古い価値観を分解して、再構築しなくてはいけない。ビルド・ア・中年である。
実際、2人の子供の育児を10数年するなかで、ケアへの苦手意識が薄れてきているのも事実だ。小さな子が転びそうになったり道路に出そうになったりしたら反射的に助けに走るし、今日だって電車の中でやや離れたところにいる老人に大きめの声をかけて座らせた。倒れた市長をとっさに土俵に上がって助けた看護師たちのようなケアの達人にはほど遠いものの、ほんの少しはケアというものがわかってきたように思う。「おばちゃんになった」といえば、それまでである。ただ、それなりに訓練を積んだ結果なのだと言いたい気持ちもある。ケアは本能でも特殊スキルでもなく、慣れによって誰でもある程度はできるようになることなのではなかろうか。ボールが来て慌てるバスケ未経験者だって、ある程度練習を積めばパスが来る気配を読んで反射的にボールをキャッチできるように。
ケアは面倒くさいし、できれば逃げたい。という気持ちも依然としてある。けれどもケアを放棄した人生は、どうしてもナパーム弾を投げ合うようなストレスフルなものになりがちだ。ケアを欠かさない暮らしのほうが、ケアの相互作用を受けやすく、精神も安定すると実感している。最近よく聞く「ケアの倫理」という概念は、だからするりと私の中に入ってきた。
ケア能力があるということは、SF小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』(ダグラス・アダムス (著)/安原 和見 (訳)・河出文庫)で恒星間ヒッチハイカーの必需品とされるタオルのようなものだと思う。タオルがあれば、身体を温めて身を守ることができる。のみならず、苦労多き銀河の旅路で宇宙人たちから親切にしてもらえることだってある。困難の中でもタオルのありかがわかっているなんて、たいした人物だと一目置かれるからだ。
人にやさしく、タオルを忘れずに。自分のようなぼんやり者は、なかなか自然に自他をケアする力は身につかないから、銀河ヒッチハイカーたちのようにガイドが必要だ。ケアとカルチャーは二者択一ではない。この連載では、さまざまなカルチャーを通して、ケアのなんたるかを学んでいこうと思う。
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『親切で世界を救えるか ぼんやり者のケア・カルチャー入門』は、全国書店やAmazonなどの通販サイト、電子ブックストアにて好評発売中です。
筆者について
ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。