『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう…でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい…ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!?「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第5回のテーマは、映画『カモンカモン』と子どものおしゃべり。
正直、子どものおしゃべりって……
ASDの10歳の次女は、とてもおしゃべりだ。おしゃべりといっても、学校で起きた出来事や友達についての話といった、親が知りたがる情報はほとんど出てこない。たいていはマンガで知った海外事情だとか、マインクラフトで作る予定のものだとか、動物や日本史の登場人物の豆知識だとか、脈絡のないことを一方的に話している。私はただ、「そうなんだー」「へーよく知ってるねー」と聞き流す。それが日常だから、子連れで駅のホームにいるときは、周囲の小学生たちがそれほど親としゃべっていないことに気づいて、あらためて驚いたりする。
「大きなバッタはどうしたかな」
「え?」
「おばさんの自転車にひかれた」
1年前か2年前か、次女がつかまえようと追いかけたバッタがスーパーの駐輪場から出てきた自転車にひかれてしまったことがあった。つぶれたおなかから路上に広がる鮮烈なオレンジ色の卵。それをまだ彼女は忘れられないのだ。
「卵から自力で赤ちゃん生まれたかな」
「さあ、どうでしょうね」
「大きくなってるかな。でもまたひかれてるかな……」
答えがもらえないとしつこく質問を続けるから、家族から「うるさい」と怒られることはしょっちゅうだ。AI相手ならいくらでもおしゃべりができるだろう、と夫が次女の机の上にアレクサを取り付けた。
「アレクサ、サザエさんの曲を流して」
テレッテテレッ、テレッテテレッ、テレッテテレッテッ(ポン)……朝から大音量で響き渡る朗らかな筒美京平サウンド。踊る次女。余計うるさくなってしまった。例によって脈絡がさっぱりわからないが、次女はサザエさんとBTSの曲で踊り、美空ひばりの「川の流れのように」に合わせて歌うのが大好きなのだ。
アレクサ、占い占い占い占い!
(「今日の運勢を教えて」ときいてみてください)
アレクサ、今日の運勢を教えて?
(家族とのさりげないやりとりを大事にしましょう)
アレクサ、ねこのひみつ知ってる?
(ごめんなさい、わかりません)
アレクサ、ぺんぺん鳴らないのになんでぺんぺん草っていうの?
(ごめんなさい、うまく聴き取れ…)
アレクサ、世界で一番大きいバッタは?
のべつまくなしにしゃべる子どもの話を聞き続けることは、アレクサだって難しい。
最近見たマイク・ミルズ監督の映画『カモンカモン』は、子どもの言葉に真正面から向きあうという困難についての映画だったように思う。NYで独り暮らしをしているラジオ・ジャーナリストのジョニー(ホアキン・フェニックス)が、心の病に苦しむ別居中の夫を助けに出かけた妹のヴィヴの代わりに、9歳の甥ジェシーとしばらく暮らすことになるというのが、映画のおおまかなあらすじ。
ジェシーはしゃべり続ける男の子である。久々に会ったジョニーに菌類の地下ネットワークでつながりあう樹木の話を聞かせ、眠るときは孤児院から逃げ出してきた孤児になりきり、ヴィヴに子供を亡くした母を演じさせる。ジョニーは彼の賢さとユニークさに魅了されるが、母親のヴィヴはジェシーを愛しつつも、話すのをやめない息子にうんざりしている。
ここで、はみ出し者の男の子が退屈な母親のもとを離れ、自由なおじさんとの暮らしで自分を取り戻す……という陳腐な展開を想像してしまいそうになるが、そうはならない。ジェシーは孤独な中年を癒すマジカルな天使ではなく、リアルにうざい子どもだからだ。「歯ブラシ持ってこいって言っただろ」とジョニーに言われて「(中年の男性だから)感情を表現することに問題を抱えているの?」と聞きかじったような言葉で言い返す。ジョニーが苛立ちをあらわにすると、ジェシーは「感じたことをそのまま口にするのはいいことだね」となぜか上から目線。しょうがなく店に連れていけば、バカみたいなポップソングを歌う歯ブラシをねだり、要求が受け入れられないと店内で姿を消してジョニーを心配させる。思わず声を荒げて叱るジョニーの言葉を、ジェシーは笑いながらおうむ返ししてからかう。逆上したジョニーは手をあげそうになり、そんな自分に気づいてゾッとする。そのほかにも街中で唐突に姿を隠したり、バスに飛び乗ったり、ジョニーを困らせる行動を次々に繰り出す。
ジェシーには友達がいない。誰に対してもおしゃべりというわけではないことは、ちらりと映る下校シーンでもわかる。おそらく同年代には受け入れてもらえないし、9年間の人生でいやというほどそのことをかみしめてきたのだろう。受け入れてくれるのは、エキセントリックな言動を面白がってくれる心に余裕のある一部の大人だけ。だからジェシーは大人にだけなつき、とことん試す。どんな自分もまるごと受け入れてくれる大人かどうかを。ここで私は、同年代の親しい友人がおらず、大人にだけ饒舌な次女に似てると感じる。大人びた口調と情緒の幼さのギャップ、落ち着きの無さ、大人へのなれなれしさは、なんらかの特性があることを匂わせる。だが障害の有無が劇中で明示されることはない。ジェシーはジェシーだ。
ジョニーは親ではないのだから、こんな面倒に付き合う筋合いはない。だが、ジョニーは苛立ちを理性で抑え込みながら、ジェシーを理解しようと根気強く彼の言葉に耳を傾け続ける。なぜジョニーはここまで耐えることができるのか。その理由を想像させるのが、時折挟み込まれる妹とのやりとりである。
ヴィヴは、一年前に亡くなった認知症の母の介護に立ち向かったのは自分ひとりだったと認識しており、助けてくれなかった兄に対してわだかまりを抱いている。母は娘を狂人扱いさえしたが、息子にはそんな姿を見せなかった。ジョニーは、ひとりで抱えこんでいたのは妹のほうじゃないかと思いつつも、いたたまれなさも感じている。
要介護の老人がたまにしか顔を見せない親族にはいい顔をして、いつも介護している親族につらくあたるというのはよく聞く話である。ケア対象の生に責任を持つケアラーは、対象の願望を気軽にかなえてあげるわけにはいかないことがしばしばあるからだ。
ただ、ヴィヴとジョニーの間にあるのは、介護の問題だけではなさそうである。母親の死について、ヴィヴは兄にこう語る。
あなたは自分を溺愛してくれる母を失った。私は決して自分を理解してくれない母を失ったの。
ヴィヴの葛藤を象徴するようなテキストがスクリーンに映し出される。ジャクリーン・ローズ『Mothers: An Essay on Love and Cruelty(「母たち 愛と残酷さについてのエッセイ」未訳)』の一節だ。
母性とは、我々の文化の中で、完全な人間であるとはどういうことかについての我々の葛藤を閉じ込める場所、というより葬り去る場所だ。母親は、個人や政治の失敗、あらゆる問題の罪を背負う究極のスケープゴートである。母親は世界のあらゆる問題の原因であり、それを修復することが母親の仕事になっているのだ(むろん実現不可能だが)。
おそらくヴィヴの母親は、このような母性に対する期待を愚直に背負った女性なのだろう。息子に対しては理想の母親像を演じきることができたが、娘に対してはそうではなかった。それが実現不可能な仕事だとは自覚しないまま、同じような母性を娘に期待し、理想を演じるなかで胸の内に押し込めてきた言語化できない葛藤も、また娘にぶつけていたのではなかったか。母性を担う者とされた娘は、個人としての自分を理解してもらえないことを悲しむ。一方であらゆることの責任を押し付けられ、混沌とした母性という世界に追いやられた母の目からは、同じ世界に生きているのに個人であることを捨てないヴィヴが狂人に見える。
ケアが追いやられてきた「暗がり」と未来
作家のアーシュラ・K・ル=グウィンは、1983年に名門女子大学の卒業式で述べた「左ききの卒業式祝辞」の中で、男性中心の文化からケアを担う女性たちが追いやられてきた場所を「暗がり」と呼ぶ。
私たちの社会において、女性は人生のあらゆる側面を生きてきました。無力、弱さ、病気、非合理的で取り返しのつかないもの、あいまいで受動的で制御のきかない、動物的で不浄なものすべてを含む人生を生き、それらの責任を負わされてきました。そしてそれゆえに、見下されてきました。そこは、影の谷、深み、人生の深淵です。
『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』
/アンナ・ラッセル (著)、カミラ・ピニェイロ (イラスト)、著者訳/フィルムアート社/2022年5月26日発売
暗がりをこのように定義したうえで、ル=グウィンはそこで生きて行くことを卒業生の女性たちに期待する。マッチョが仕切る競争主義の息苦しい社会システムの先にはない未来が、「暗がり」=ケアの世界にはあるからだ。
そこでは戦争が行われることも、戦争に勝つこともありません。けれども、未来がある場所です。私たちの根っこは暗がりにあります。
同上
おそらくジョニーは、母とヴィヴが生きた「暗がり」に足を踏み込むことを自らに課したのではないだろうか。好むと好まざるとにかかわらず、男性として生まれたジョニーは「暗がり」を知らないまま、日のあたる世界で仕事に没頭することができた。母に溺愛された思い出だけで生きていくことは、むろんできる。けれども母が引き受けてきたものを知らないままでは、母を失うという体験をまっとうできない。なぜ結婚していないのか、なぜ恋人と破局したのかをジェシーに問われて、ジョニーがうろたえるシーンがあるが、うまくいかなかった原因が、母に関係していることは明らかだ。だからこそ、ジョニーはジェシーの子守を自ら名乗り出た。その行為は、私たちの「人生のあらゆる側面」(ヴィヴは”Our entire lives”と表現する)をずっとひとりで背負ってきたと訴えるヴィヴへの贖罪でもある。
ジェシーはまさに、「無力、弱さ、病気、非合理的で取り返しのつかないもの、あいまいで受動的で制御のきかない、動物的で不浄なものすべて」を象徴するような存在だ。彼の語りが、樹木の地下ネットワーク、親のない子、宇宙など暗がりにまつわるものばかりなのも、偶然ではないのだろう。彼の言葉を真正面から受け止めることが、暗がりを生きるということである。
なぜママとジョニーは普通のきょうだいみたいじゃないの? どうして子どもを持たないの? 上っ面な答えを返せばすぐに「ペラッペラ!(blah blah blah)」と突っ込むジェシーの容赦ない質問攻撃に対し、ジョニーは真摯に答えを探す。その過程で、ジョニーはこれまで直視することを避けてきた自分の中の「暗がり」に向き合わざるをえなくなる。電話でヴィヴに愚痴り、対処法を聞き、ときにはネットで育児法を検索してまでジェシーに応えつづけたジョニーは、母や妹が担ったものの一端を知り、人生の欠けたピースを取り戻そうとする。
ニューヨークやロサンゼルスの街並みがモノクロームで映し出されることで、ジョニーが体験する「暗がり」を、観客の私たちも感受する。そこは上昇志向にあふれるビジネスマンやアーティストが闊歩するキラキラした活気あふれる街というよりも、子どもがあっさりと姿を消す寓話の中の暗い森のように見える。
目をくらませる光の中ではなく、滋養に満ちた暗がりの中に希望はあり、人はそこで魂をはぐくむのです。
アーシュラ・K・ル=グウィン「左ききの卒業式祝辞」/同上・著者訳
ル=グウィンは、マッチョの真似をするのではなく、暗がりで暮らし、「自分たちの国の夜を生き抜くことによってのみ」、暗がりの昼の部分にたどりつくことができると語る。この映画で描かれるのも、一般的な成功や勝利ではなく、暗がりに差し込む穏やかな光である。水面のきらめき。木漏れ日。やわらかなカーテン越しの日射し。安心してジョニーにもたれかかり、彼を見上げるジェシーの瞳の光。モノクローム映像の暗がりの中だからこそ、ささやかな光が強く印象づけられ、ジョニーとジェシーがたどりついた場所を私たちに暗示する。
子どもの言葉をちゃんと聞くのは本当に難しい。私はすぐに適当な答えを返してしまうし、賢いアレクサだって、「川の流れのように」をリクエストされて、奥村チヨの「恋の奴隷」を流したりする(教育に悪すぎる)。それでも子どもはめげずに話し続けるし、アレクサもがんばって対応しているから、私も今度こそしっかり耳を傾けようと思う。
「アレクサ、またね」
さようなら。また話しかけてくださいね。
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筆者について
ほりこし・ひでみ。1973年生まれ。フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。