戦後日本の芸術家や思想家、運動家、宗教家たちは、「縄文」に何を見出していったのか。戦後日本は何につまずき、いかなる願望を「縄文」に投影していったのか。その軌跡を追うことで、戦後日本を別の角度から検証する。
柳宗悦らが主導した日本の民藝運動は「原始」と重要な接点を持つ。そして戦後、「縄文」へのコミットメントをさらに強めていくことになる。
東京高等工業学校窯業科
東京都台東区蔵前。
浅草の南側に位置し、おもちゃ問屋が軒を連ねることで知られる。最近では、倉庫をリノベーションしたカフェや雑貨屋が多くなり、ニューヨーク・ブルックリンの雰囲気に似ていることから「東京のブルックリン」と呼ばれる。
江戸時代、ここには幕府の「浅草御蔵」と呼ばれた米蔵が立ち並んでいた。これは幕府が天領地から集めた米を保存するためのもので、東側を流れる隅田川の水運が利用された。この米蔵の西側に広がった町が「蔵前」である。
明治維新によって幕府が倒れると、この米蔵は明治政府の管轄になった。しばらくは内務省管理の浅草文庫などが置かれていたが、これが上野の博物館に移設されると、1881年、東京職工学校という官立学校が設置された。現在の東京工業大学の前身である。
東京職工学校の設立に大きな役割を果たしたのが、ゴットフリート・ワグネルという「お雇い外国人」だった。ワグネルはドイツのゲッティンゲン大学に提出した論文で数理物理学の博士号を取得し、1968年、アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場設立にあたって来日した。長崎で始動したこの会社は、製品開発が軌道に乗らず失敗に終わったが、彼は佐賀藩から委託を受け、有田焼で知られる有田町で窯業の指導に技術指導にあたった。
釉薬(ゆうやく)調合の技術を伊万里焼・有田焼に導入し、重要な功績を果たすと、明治政府から声がかかり、大学南校(現在の東京大学)予科教師となった。その後、1872年に東校の物理学・化学教師、75年には東京開成学校の理化学教師、さらに78年には京都府舎密局で陶磁器と化学の指導にあたった。この間、農商務省の依頼で製陶業の改良に従事し、「吾妻焼」と称した釉下彩陶器の制作を行った。このことからワグネルは「日本近代窯業の父」と呼ばれるに至る。
ワグネルが力を尽くしたのが、技術者・指導者育成機関の設置だった。彼は実用的な技術教育の必要性を訴え、文部省の教育博物館長補を務めていた手島精一と共に「職工学校」の必要性を説いた。これが採用され、設立されたのが蔵前の東京職工学校である。
ワグネルがこだわったのは、この学校に窯業の学科を設置することだった。彼は化学工芸科の中に「窯業学」という科目を設置し、1884年には製造化学教師に着任した。そして、1886年には「陶器玻璃(はり)工科」を設置し、自ら主任となった。
東京職工学校は発展を遂げ、1890年に「東京工業学校」、1901年に「東京高等工業学校」と名称が変更になった。1923年の関東大震災で校舎が壊滅的被害を受けたことを契機に、場所を大岡山に移した。現在の「東京工業大学」という名称になるのは、大岡山移転後の1929年のことである。
1903年、蔵前の校舎に1人の男が着任する。板谷波山。近代陶芸のパイオニアで、陶芸家として初の文化勲章受章者となった人物である。
彼は31歳のとき、東京高等学校窯業科の嘱託に採用され、作陶に従事する傍ら、後進の指導にあたった。ここに優秀な学生たちが集い、のちの日本の民藝運動を牽引する人脈が形成される。
1910年入学の河井寛次郎(かわい・かんじろう)、そして1913年入学の濱田庄司(はまだ・しょうじ)。
両者は柳宗悦(やなぎ・むねよし)と共に、「民藝」という概念を生み出し、作家として民藝運動を主導したことで知られる。濱田の弟子で、「縄文象嵌」という独自の紋様を編み出した島岡達三も、東京工業大学時代の卒業生(1939年入学)である。日本の民藝運動の源流は、東京高等工業学校窯業科にあったといえよう。
この東京高等工業学校は、様々な工業分野で有能な人物を輩出し、明治後半から昭和初期にかけては「煙突のあるところ蔵前人あり」と言われるまでになった。産業界における技術者を目指す者の憧れの学校となり、「蔵前」と言えば「東京高等工業学校」を指すようになった。
1903年、この学校の生徒募集を目にし、工業デザインの世界にあこがれを持ったひとりの青年がいた。
杉山寿栄男(すぎやま・すえお)である。
図案家・杉山寿栄男と「原始文様」
杉山は1885年、東京浅草に生まれた。家は貧しく、14歳から大蔵省印刷局の職工として働いた。
ある日、「官報」の印刷を行っていると、東京高等工業学校附属工業補修学校の生徒募集の広告が目に入った。図案家になることを志していた彼は、この広告に飛びついた。
彼は、大蔵省印刷局の仕事を続けながら、この学校の図案科と製版科に入学した。仕事と学業の両立は厳しく、時に職場で嫌がらせを受けたが、通学し続けた。その結果、3年後に優秀な成績で卒業し、今度は東京高等工業学校(選科)の工業図案科に進学した。成績優秀だったことから学費は免除され、凸版印刷に勤めながら応募した図案懸賞でも当選を繰り返した。[熊谷1923]
しかし、杉山には不満があった。それは東京高等工業学校の図案教育は「海外工芸資料の紹介が主」であり、日本のものや東洋のものは往々にして退けられていたからである。その結果、「一面に於ては西洋趣味のグロテスクな気分を生み、無理解な線の運動は締りのないヌーボー文様」となっていった[杉山1929]。
そんなときに出会ったのが高橋健自だった。高橋は弥生時代と古墳時代を専門とする考古学者で、東京帝室博物館の要職を務めた。杉山は学友に連れられて高橋の自宅を訪問し、それ以来、「折々御邪魔をしては御指導を得」るようになった。時に教えを請い、蔵書を借用するうちに「第二の学校へでも居るやうな気持」になった[杉山1929]。
杉山は、1909年に東京高等工業学校を卒業し、杉山図案所を設立した。ここで彼の図案家としての才能が開花する。大日本麦酒株式会社(のちのサッポロビール株式会社)や中山太陽堂(のちの株式会社クラブコスメチックス)などの広告デザインを手がけ、商業図案の第一線で活躍した。1921年には印刷物、印刷技術、印刷に関する歴史資料を展示した「印刷文化展覧会」に関わった。ここでは古代の印刷物を蒐集し、展示に貢献したという。
この辺りから、杉山の蒐集家としての活動に火がつく。同年、牛込区河田町に自宅を新築すると、あっという間に考古学遺物や仏像、民俗資料のコレクションで埋め尽くされ、博物館の様相を呈した。
杉山が特に注目したのが「縄文」だった。きっかけになったのは、高橋の教えだった。以前は、上野の帝室博物館で縄文土器を見ても「素焼の瓦かけ位にしか感じなかつた」が、「先生の教へを受けてから形態に文様に地方色や種々相のある事を考へさせられるに及んで遂に土器に引かれ北に南に国々を巡り始めた」[杉山1929]。
杉山は考古学という観点からではなく、図案家としての関心から縄文の紋様に興味を持った。全国の遺跡を巡り、遺物の蒐集や拓本を繰り返した。そして「原始文様」「原始工芸」「原始文化」という用語を使い、1923年の『原始文様集』第1集を皮切りに、次々に図録を刊行した。
この「原始文様」への関心は、アイヌへの関心につながる。彼はたびたび北海道を訪問し、アイヌの工芸品を蒐集した。そして、東京や北海道で展覧会を開催し、アイヌ資料保存の重要性を説いた。
杉山は、考古学者が説く「原始文様」についての通説に挑んだ。1926年7月には『人類学雑誌』に「原始文様に関する一二の私見」と題した「論説」を発表している。ここでは「大腿骨文様」「遮光器文様」をめぐる学説を「すべて一種文様の一部分のみを抽出して、自己の感じに結びつけた、目的論的な仮説にすぎない」と退け、「実体文様論」を超えたアプローチの必要性を訴えている。
杉山が提唱する方法は、「工芸学的立場から、線の表現法、又は構成法等を観察し、多くの例品を蒐め、以て順次に帰納推論」するというものだった。
彼は次のように主張する。
自分の今まで見た経験によりますと、原始文様はすべて一貫した何等かの因果関係を持つてゐるものと考へられます。千差万別等と形容されてゐたあらゆる文様も、その構成法、描写法等を仔細に見る時は、そこに連綿たる一派の関係が存してゐるんおでありまして、材料が増せば増す程、突発的な、その所属を知るに苦む様なものはなくなつて参ります。之等を蒐成整理するならば、恐く十の指を以て数へる種類内に、すべての様式のものが包含されるのであります。今試に分類した文様の種類を述べますならば、波状線紋、渦巻紋、巴紋、卍紋、弧線紋、等々であります。
[杉山1926a]
杉山は別の論考でも、「原始文様」を「根本に於ては、描写線の結束より来る安定感に由来された結縄紋を起源に有し、之れが応用美化されて、種々なる文様を生じたと云ふ、工芸的な起源の文様であると考へられる」と述べている[杉山1926b]。
杉山は、「原始文様」の規則性と類型を明らかにしようとした。そこには、東京高等工業学校で図案を学び、広告デザインの世界で活躍した彼の立ち位置が現れているといえよう。
この杉山と交流を持ち、「縄文」の世界に関心を持った人物がいる。
芹沢銈介(せりざわ・けいすけ)。
近代日本を代表する染色工芸家・図案家で、戦後に人間国宝となった人物である。彼もまた、杉山と同じ東京高等工業学校工業図案科の卒業生だった。
芹沢銈介と芹沢長介
1895年、芹沢銈介は静岡に生まれた。祖父は地元ではよく知られた呉服商で、家の敷地は広かった。子供のころから絵の才能があり、小学校の先生からよく褒められた。静岡中学に進学すると「静中画会」という絵画クラブを結成し、主に水彩画を描いた。
1913年7月、芹沢は東京高等工業学校図案科に入学する。杉山と同じ学科だったが、彼は1909年に卒業しており、このとき、学内にはいない。同期には濱田庄司、2年先輩には河井寛次郎がいたが、彼らは別の窯業科で、学生時代に面識はなかった。
芹沢は東京高等工業学校で図案を学び、工場実習を繰り返した。これが彼の染色家としての原点となる。卒業後は静岡に戻り、植物写生に明け暮れた。1918年からは静岡県静岡工業試験場技手となり、翌年には静岡県立静岡工業学校教授嘱託となった。
このころから芹沢は、名もなき絵師たちによって描かれた「小絵馬」の蒐集を始める。「小絵馬」は、神社や寺院に祈願や報謝のために奉納するもので、庶民の切実な願いが込められていた。
1921年、芹沢は大阪府立商品陳列所図案課に産業技師として雇用された。ここでは国内外の図案の調査や指導、講演などを行った。しかし、この仕事も長くは続かず、翌年、依願退職すると再び静岡に戻った。
このころから具体的なものを作りたいという思いが募って来る。そして、手芸グループでデザインを担当する過程で、徐々に染色家への道を志すようになった。
芹沢にとって、決定的だったのが、柳宗悦との出会いだった。1927年の春、芹沢は友人の鈴木篤とともに朝鮮への旅に出たが、この往路の船の中で、雑誌『大調和』に掲載された柳の「工芸の道」という文章を読んだ。これに強い感銘を受け、長年悩んでいた工藝に対する疑問が氷解したという。そして、この年の6月、銀座の鳩居堂で開催された日本民藝品展覧会で、柳の提唱する「民藝」という概念に接した。「小絵馬」を蒐集していた彼にとって、民藝運動は自らの考えと通底するものであり、新たな方向性を示すものだった。
ちょうどそのような時、柳の耳に、芹沢の「小絵馬」コレクションの話が入った。柳は芹沢宅を訪問。蒐集品を見て、その選択眼の確かさに感銘を受けた。ここから柳と芹沢のつながりが始まる。
芹沢は翌1928年、京都市上賀茂の柳邸を訪問し、その蒐集品の配列に圧倒された。また、この年に上野公園で開催された大礼記念国産振興博覧会(3月24日~5月27日開催)で、柳が命名した「民藝館」を見学。そこに展示されていた沖縄の紅型の風呂敷に「こんな美しい楽しい染物以上の染物があるのか」と感銘を受けた。
ここから、芹沢は本格的に染色家としての歩みを進めた。1929年には、第4回国画会展にろうけつ染の「杓子菜文壁掛」を初出品し入選を果たした。
柳は芹沢の作品を高く評価し、1931年1月に雑誌『工藝』を創刊すると、その表紙装丁を任せた。1932年12月に刊行された『工藝』24号では、「芹沢銈介紹介号」として特集が組まれた。以後、芹沢は民藝運動の有力メンバーになり、活動を共にするようになった。芹沢は柳に心酔し「『先生』といえば『柳先生』しかなかった」という[芹沢長介2005:12]。
そして、ちょうどそんなころに出会ったのが、杉山寿栄男だった。ふたりの間には10歳の年齢差があったが、同じ東京高等工業学校図案科の出身ということもあり、意気投合した。そして、この杉山の影響で、芹沢は「原始」の出土品に関心を持つようになった。
息子の芹沢長介は、次のように回想している。
銈介は若い頃からその(杉山-引用者)影響を受けていたらしく、縄文土器や弥生土器のような古い時代のものにも興味を示していた。
[芹沢長介2003]
静岡中学に入学した長介は、父からの影響で考古学に関心を持ち始めた。1年生のときに授業で弥生時代の石斧を見たことで考古学熱に火が付き、石器や土器のとりこになった。そして、友人たちと遺物の採取旅行に出かけ、持ち帰って自宅の陳列棚に並べた。
そんな息子に対し、父・銈介は棚や箱を制作し、時に静岡県内の遺跡に連れて行ったという。長介は考古学者の道を歩み始め、のちに戦後日本を代表する考古学者に成長する。
1934年、芹沢一家は静岡を後にし、東京・蒲田へ引っ越しする。父・銈介と息子・長介は、度々、杉山の自宅を訪問し、その蒐集品に親しんだ。
長介は、杉山邸を次のように回想している。
東京牛込の河田町にあった杉山邸の入り口の左側には、千寿堂と名づけられた仏像の収蔵庫があり、右側の築山には縄文時代の巨大な石棒が並んで立ててあった。庭の奥には大きな箱を積み重ねた棚があり、その中には完全な形の縄文土器がずらりと並んでいた。玄関を入れば、すぐ奥の応接間には完全な形の琴を弾く埴輪人物像などが並んでおり、邸宅そのものが個人博物館となっていた。
[芹沢長介2003]
芹沢親子と杉山の関係は、深まっていった。この中から、杉山と民藝運動の接点が生まれる。
日本民芸館での「アイヌ民芸品大展観」
1941年、日本民藝館で「アイヌ民芸品大展観」が開催された。これは芹沢銈介が杉山の所蔵品からアイヌ関係の工芸品を約600点選び、展示したものだった。9月2日から11月9日まで開催され、特に9月15日に金田一京助と杉山を招いて開かれた講演会は、日本民藝館の大広間が満員になる盛況ぶりだった。
この展覧会について、柳宗悦は次のように述べている。
杉山氏の蒐集はアイヌ工芸品に関する限り、群を抜くものであつて、恐らく今後之以上に集めることは不可能であらう。六百点程の陳列であつたが、恐らく同氏の蒐集のごく一部に過ぎぬであらう。選択は芹沢銈介之を負ひ、考古学又は民俗学的な観点からではなく、価値的に優れたものを旨としたから、アイヌを最上の姿で示した展観であつたと信じる。織物の類、木工の類にはとりわけ、たまらぬものがあつた。どんな国の工芸品の間に互しても引け目のないものがあつた。かう云ふものを宛ら未開人の工芸の如く取り扱つてきた文化人の粗笨さにも驚かされる
[柳1981:524]
柳は、この展覧会を通じて、アイヌの美に目を見開かされた。彼はアイヌ工芸品のなかに「創造の力の容易ならぬものを感じ」、心から感嘆した。そこには「虚偽」はなく、あらゆるものが誠実さに満ちている。一方で、現代日本社会の文物には「偽瞞」や「不誠実」が現れており、美が伴っていない。[柳1981:501-504]
なぜ、そのようなことが起るのか。
柳は信仰のあり方の相違を指摘する。アイヌの世界では、「霊魂の実在は疑ふ余地を許さない事実」である。彼らは全身で霊的世界を生きており、信仰が生活に密着している。一方、現代の知識人や文化人は、信仰そのものに対して懐疑的で、合理性を重視して生きている。[柳1981:505]
信が深くば美も亦深く、美が厚ければ信も亦厚い。此の法則は昔のみではなく、今も変りがあらう筈はない。無数の醜いものが群る現在の工芸界で、ひとり健全な道を歩むものを求めると、彼等の背後にいつも篤信な生活が控へてゐることを見逃すわけにはゆかない。
[柳1981:507-508]
柳のまなざしは、その先に「原始」の美に向けられた。原始社会では、「神秘」が自明のものとして共有され、「禁制の宗教」が存在した。「犯すべからざる律」は、「彼等の全身を戦いかしめるほどの魔力」を持っていた。「此の恐怖は彼等の心を眠らせはしない」。[柳1981:510]
このような宗教的エートスに根差した工芸品は、「粗野」なものでも、「野蛮」なものでもない。「彼等(原始人-引用者)を只未開人のものだと云ひ棄てるわけにはゆかない」。現代人が見失った「美」が、そこに顕在化している。[柳1981:509-511]
柳は、杉山が使用してきた「原始工芸」という用語を使用し、力強い美が現れていると論じた。ここに民藝運動と「原始」の重要な接点が生まれる。最晩年の柳は、縄文の「原始工芸」のなかに、計らいを超えた究極の美を見出していく。
杉山のコレクションは、その後、1945年の東京大空襲で大半が焼失してしまう。大きなショックを受けた杉山は、戦後に再起を図るものの、翌1946年に鬼籍に入った。
杉山の存在は、芹沢銈介と柳宗悦に「原始」への関心をもたらした。民藝運動は、戦後に「縄文」へのコミットメントを強めていくが、その基礎を作ったのは杉山だったと言えるだろう。
そして、何より彼の「原始文化」の探究が、芹沢長介という戦後を代表する考古学者を生み出すきっかけを作った。芹沢長介は、1949年、明治大学考古学研究室による岩宿遺跡の発掘調査に参加し、相沢忠洋らとともに日本における旧石器時代の存在を明らかにしていく。
そんな若き考古学者のもとに、「ある話」が持ち込まれる。
【参考文献】
熊谷生(敬一) 1923 「僅か日給十二銭の印刷工より千寿堂建立まで-図案家杉山寿栄男氏の半生」『印刷雜誌』6巻1号
蔵田愛子 2013 「図案家杉山寿栄男の縄文土器研究 : 考古図集と原始文化展覧会を手がかりとして」『文化資源學』11号
白鳥誠一郎 2021 「日本人としての芹沢銈介」『別冊太陽-芹沢銈介の日本』293号/平凡社
杉山寿栄男 1926a 「原始文様に関する一二の私見」『人類学雑誌』41巻7号
____ 1926b 「原始文様に就て」『考古学雑誌』16巻11号
____ 1929 「高橋健自先生を憶ふ」『考古学雑誌』19巻12号
芹沢長介 2003 「芹沢銈介とアフリカ」山口昌男監修『わきあがるかたち-アフリカ美術展 : 仮面・染織からストリート・アートまで : power of Africa』(広島県立美術館展覧会図録)東京かんかん
____ 2005 「父・芹沢銈介を語る」『芹沢銈介展』朝日新聞社
藤沼邦彦・小山有希 1997 「原始工芸・アイヌ工芸の研究者としての杉山寿栄男(小伝)」『東北歴史資料館研究紀要』23巻
柳宗悦 1981 『柳宗悦全集』第15巻/筑摩書房
筆者について
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。