谷崎由依さんの『遠の眠りの』という小説を読んでから、それまで意識したことのなかった福井市の「敦賀」という町のことが気になっていた。かつて戦争によりポーランドの孤児がたどり着き、ナチスの迫害により多くのユダヤ人たちが逃れてきた町。腰の重い私がようやく敦賀に向けて出発したのはつい先日のことだ。
意識に上ったことのなかった敦賀という土地
去年2021年の秋ごろ、谷崎由依という作家の『遠の眠りの』という小説を読んでいた。大正・昭和期の福井県が舞台で、戦前、福井市内の「だるま屋」という百貨店に作られた歌劇部「だるま屋少女歌劇」をモチーフにした物語だった。
寒村に生まれた主人公は家を飛び出し「人絹(じんけん)工場」の女工として忙しく働いている。厳しい労働環境のなかで、読書好きの主人公は雑誌『青鞜(せいとう)』に背中を押されるようにして女性の権利について考え始める。そんなとき、ふとした拍子にめぐりあうのが「だるま屋少女歌劇」で(作中では百貨店の名前が「えびす屋」と改めてられている)、主人公はそこに脚本家として迎え入れられることになる。
徐々に戦争の気配が近づいてくる時代を生きる女性たちの姿が静かで美しい文章によって描かれていて、鮮やかに頭の中にイメージされる。この小説を読めてよかったと、感謝したい気持ちで胸が満たされるような作品だったのだが、作中に、福井県の敦賀(つるが)という港町にたどり着いたポーランド人の子供が出てきて特に印象的だった。
小説のなかに重要な人物として現れるそのポーランド人の子供は、「ポーランド孤児」といわれる、大正時代にロシアのウラジオストクから福井の敦賀港へ逃れてきた子らのひとりだという設定になっている。
私はまったく知らなかったのだが、調べてみると、この「ポーランド孤児」の話は史実だった。ポーランドの人々は18世紀に隣国の紛争に巻き込まれて国を失い、その後を統治したロシアによってその多くが極寒のシベリアへ送られた。さらに時代が下った1917年、ロシア革命が起きるとシベリアの地にまで混乱が及び、そこで暮らしていた20万人近いポーランド人たちの暮らしが脅かされたという。飢えや寒さに多くの人が苦しんだが、とりわけ悲惨だったのは親を失った孤児たちだった。
ウラジオストク在住のポーランド人によって孤児救済事業が立ち上がると、その要請を受けた日本赤十字社が受け入れを承諾。その結果、765人の孤児たちがウラジオストクから敦賀へ渡り、さらにそこから東京や大阪へと移動し、救護されたという。
また、先述の小説からは離れるが、さらにのちの1940年になると、ナチスの激しい迫害を受けたユダヤ人たち約6000人がやはり敦賀港に逃れて命を助けられている。
これらはロシアや韓国との距離も近く、昔から国際港としての役割を果たしてきた敦賀だからこそのことで、そう知った私は今までまったく意識に上ったことのなかった敦賀という土地に一気に興味が湧き、行ってみたいと思うようになったのだった。
で、その敦賀なのだが、私の住む大阪方面からはかなり行きやすい位置にある。JR大阪駅から東海道・山陽本線の新快速に乗れば2時間ほどで着く(途中で特急電車を使えば1時間半だ)。敦賀行きの電車に乗れば大阪駅から乗り換えなしである。ルートを検索し、「こんなに簡単に行けるんだ!」と驚いたのは『遠の眠りの』を読み終えてすぐだったが、腰の重い私がようやく敦賀に向けて出発したのはつい先日のことだ。
「ソ連領事館跡」の碑、日本原子力発電のビル
「13時ぐらいに敦賀に着く電車に乗って、着いたら駅前で何か食べて、あとはそれから考えよう」と、その程度の雑なイメージだけ思い描いて家を出た。幸い、天気はよかった。
JR大阪駅で新快速に乗り換える。京都駅で乗客の大半が下車し、そこからは急に静かで広々とした車内になった。車窓からの景色をぼーっと眺めていると、右手に琵琶湖が見えてくる。近江舞子という駅のあたりに差しかかると線路は湖のすぐ近くまで迫る。その駅の近くには「湖水浴場」があって、何度か泳ぎに行ったことがある。琵琶湖の水は透明で、水中眼鏡をかけて泳ぐと小さな魚の群れがあちこちに見えて楽しい。
琵琶湖の西岸に沿うようにして北へ北へと向かう電車が、いよいよ終点の敦賀に着いた。時刻は予定通り、13時を過ぎたばかりだ。平日だからというのが大きいのだろうが、駅前には人の姿があまりなく、空の広さと青さがやけに目立った。
駅前通りのあちこちには松本零士のマンガ・アニメをモチーフにしたブロンズ像が立っている。これは、松本零士の出身地が敦賀だとか、そういう縁のためではなく、敦賀に古くから港と駅があったことから、『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』にあやかって設置されたとものだという。わりと強引だ。
駅前通りの両側はアーケードになっているのだが、シャッターをおろした店が多かった。平日だからか、新型コロナウイルスの広がりがまだまだ落ち着ききらない時勢だからか。
通り沿いに「ソ連領事館跡」の碑が立っていたり、日本原子力発電のビルがあったりするのを見て、「敦賀に確かに来たんだな」と感じる。
「奥野食堂」という古い食堂の前を通って気を惹かれたのだが、休業中との貼り紙が。外観の写真を撮っていると、お店の方らしき人が「ごめんねえ。今休みなの! 4月からまたやりますからね!」と声をかけてくれた。
さらにしばらく歩き、「金兵衛」というお店の前にたどり着いた。ここは営業しているようだ。ちょっと高級そうな雰囲気もあるが、「ランチタイムのメニューならなんとかなるだろう」と思い切って入ってみることに。
メニューを見ると、「おまかせ定食」というのがあって1650円だ。これなら手が出せる。あたたかいお茶をいただきつつ、静かに待つ。
運ばれてきたのはお刺身も煮物もフライもついた豪華なセットだった。刺身は新鮮そのものといった上品な味わいだし、よく見たらフグの煮物やカニの酢の物もあるじゃないか。普段より少しいいものを食べるだけで、旅気分がいきなり高まる。
会計時にお店の方に最近の人出について聞いてみた。コロナ以降、観光客はガクッと減っているそうで、通り沿いの店も休んでいるところが多いという。特にショックだったのが、敦賀名物だと聞いて楽しみにしていた、夜になると駅前通りに現れるラーメン屋台もほとんどが休んでいるという話だ。今回の旅の最後をそれでしめくくろうと考えていた私は、深く落ち込んだ。
まあ、こればかりは仕方ない。敦賀に来たいちばんの目的である「敦賀ムゼウム」という施設に向かって歩き出すことにした。
住んでいた場所を離れ、遠い見知らぬ土地に来ることになった
「敦賀ムゼウム」は、冒頭に書いたポーランド孤児たちと、ナチスから逃れてきたユダヤ人たちに関する資料を展示している施設で、敦賀駅から港へ向かって30分ほど歩いた場所にある。周辺の道路上には「ユダヤ難民上陸地点」への案内表示が描かれていたりして、国と国の戦いや独裁者の思想によってここに来ざるを得なかった人たちが本当にいたのだということをひしひしと感じた。
施設内では敦賀に逃れてきた人々がどのような経緯でここへ来ることになったかをアニメーション等で紹介しており、当時の写真も多数展示されていた。ポーランド孤児たちのなかに腸チフスや百日咳などを患っている者がいて、その看病にあたった日本の看護婦が病に感染して亡くなったことや、着の身着のままの状態で敦賀を歩いていたユダヤ人たちを見て土地の人々が驚いた様子なども記されていた。
ポーランド孤児のひとりがつけた当時の日記には、日本でたくさんの人たちの歓待を受け、それに感謝している様子が記されていた。実際、この地にやってきたために生き延びた人が大勢いたのだろうけど、しかし、住んでいた場所を離れ、遠い見知らぬ土地に来ることになった不安はどれほどだったろうと思う。
入口の脇では「ポーランド人道支援金」を受け付けていた。ポーランドではウクライナからの避難民を積極的に受け入れていて、集まったお金はそれを支援するために使われるとのこと。今もまた、住み慣れた場所から突然移動しなければならなくなった人たちが大勢いると思うと辛くなる。自分に出せるだけの金額を箱に収め、再び空の下を歩いた。
敦賀港周辺は公園として綺麗に整備されていて、ベンチでのんびり過ごす人たちや広場でスケボーをする少年たちの姿があった。敦賀駅からここまで歩いてきて、ようやくたくさんの人の姿を見かけた瞬間だった。
「気比(けひ)の松原」と呼ばれる観光名所である「松原公園」まで、そのまま歩いてみることにした。途中に見つけた酒屋の自販機で缶チューハイを購入していく。
松林を超えると美しい砂浜が広がっていた。夏は海水浴場として賑わうらしいが、まだ肌寒さを感じるこの季節は人もまばら。
海を見ながらチューハイを飲んで過ごせることがすごくうれしくて、セルフタイマーモードに設定したスマホで寝転ぶ自分を撮影したりした。
「日本三大松原」というもののひとつに挙げられるらしい「気比の松原」の、その広大さを感じながら再び町のなかへ戻っていく。
土地の人の言葉を浴びる
自分にとっては初めての町を歩きながら、やはりどうしても海の向こうから命がけで敦賀にやってきた人々のことを考えてしまう。私が「敦賀ムゼウム」で買ってきた『人道の港 敦賀』という冊子には、ナチスから逃れて敦賀に来たユダヤの人々を目撃した地元民たちの証言が収められていた。たとえばこんなものがある。
証言12 りんごを食べながら歩いていた
『人道の港 敦賀』古江孝治 著/日本海地誌調査研究会/2007年
終戦後、北小学校の卒業生の友達が話すには、昭和15年~16年ころにユダヤ人が港から敦賀駅まで歩いて行くときに、リンゴを一口かじっては後ろへ回して全員で食べていたという。私はそのとき、子どもの頃は道で、まして歩きながら物を食べることは大変行儀の悪いことと教わったので、この話はよく覚えている。船に乗っていたユダヤ人の服装は、黒っぽい服装で帽子をかぶり、冬だったので外套を着ていた。
この敦賀の町を、リンゴを分け合って食べながら歩いていた人たちがいた。見たこともないその人たちの影が、今の町並みのなかに浮かび上がるような気がしてくるのだった。
静かな気持ちのままに歩いていると「サフラン湯」と書いた、どうやら銭湯への案内板らしきものが目に入った。案内に従って進んでみると、なんとも歴史を感じる建物が現れた。
昭和7年、1932年に創業した銭湯で、かつてはサフランの薬湯があったためにこの名になったのだという。熱めのお風呂につかっていると、近隣の方だと思われる人たちが交わす言葉が聞こえてくる。「今年はもう、雪降らんな」「そうかな、まだわからんで!」と、天気ついて話していたり、「えっ、あの人、まだ車運転してんの? そろそろ返納してもええけどなぁ」「運転が生きがいらしいわ」と、地元の誰かのことについて語り合っていたりする。土地の人の言葉が聞こえると、それだけで何かありがたいものを浴びているような気持ちになる。
しっかり体を温めてから外に出て、近くに建つ「アル・プラザ敦賀」というショッピングセンターの上階の窓から、敦賀の町を見下ろした。
先述の『人道の港 敦賀』という冊子に収録された地元民の証言には、こんなものもあった。
証言31 朝日湯は大騒動だった
『人道の港 敦賀』古江孝治 著/日本海地誌調査研究会/2007年
戦後まもなく、当時70歳くらいの親戚のおばあさんに「10年ほど前に港に沢山のユダヤ人が上がったものの、垢だらけで臭いので朝日湯さんが一日休んで、タダで風呂に入れたが後の掃除に大騒動したという話を誰かがしていた」と聞かされたことがある。ちなみに、戦災前はおばあさんの家と朝日湯の距離は15mぐらいだった。
その「朝日湯」は現存しないそうなのだが、冊子に添えられた地図を見ると、今私が立っているショッピングセンターからもそう遠くない場所にあったようだ。銭湯の協力で長旅の汚れを落とした人々は、どんな気分で町を歩いていただろうか。
夜遅くまで営業している屋台のラーメンが通りに並ぶのであれば、それを目当てに泊まっていこうかと思っていたのだが、今回はタイミングが悪かったのかもしれない。大阪方面へ向かう電車はまだあるので、どこかで食事をして今日のうちに帰ることにした。
駅前に「寶龍(ほうりゅう)」というラーメン店があり、美味しそうだなと思って中へ入る。店内を見回すと、どうやらこの店、札幌のすすきのに本店を構える札幌ラーメンの店の支店で、敦賀のご当地ラーメンというわけではないようだった。
「まあ、敦賀に来て札幌ラーメンを食べるというのも面白い」と気を取り直し、看板メニューの味噌ラーメンを注文する。店のテレビに明日の天気予報が映る。いつもと違う町の天気予報。明日は朝から雨らしい。やっぱりこれは今日のうちに帰れということかな。
お店の方が私のもとまで持ってきてくれたラーメンは、味噌の旨みを感じる、とても美味しいものだった。
すっかり暗くなった通りを駅まで戻る。夜の町は閑散とした様子で、雰囲気のよさそうな店も、残念ながら電気がついていなかったりした。駅には「敦賀-東京間 北陸新幹線開通まで 741日」と表示された案内板が設置されていた。およそ2年後、この敦賀まで北陸新幹線が延伸するのだそうだ。そうなったら、この町の雰囲気も変わっていくだろうか。人がたくさん来て、通りが賑わっているだろうか。
とりあえず私はそれまでのあいだにまた敦賀に来て、「奥野食堂」でご飯を食べて、居酒屋で酒を飲んで、締めに屋台のラーメンを食べたい。そしてその時は駅前のビジネスホテルを予約しよう。部屋のテレビで翌日の天気予報を見て、どんな天気だろうと翌朝はまた海まで歩く。
その時、海の向こうの国々はどんな局面を迎えているんだろう。私はどんな気持ちで海を眺めているだろう。
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『家から5分の旅館に泊まる』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年7月25日(木)より発売いたします。
筆者について
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』を中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』、『「それから」の大阪』など。パリッコとの共著に『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『酒の穴』などがある。