朝、目が覚めたらノートパソコンを開き、ウクライナ情勢に関するニュースをチェックする。信じられないようなことが毎日起きている。これまで戦争に関する小説や映画にほんの少しばかり触れてきたなかで、戦争はあれよあれよという間にはじまっていくものという印象があり、やはりこんなふうに急に事態が展開していくのかと思った。
「死ぬときは死ぬんですから、普段通りやるしかないっす」
1週間前、1か月前には想像すること自体がはばかられたような状況が、パソコンのモニタに静止画や動画として映し出されている。そしてまた、それらの情報は出所もさまざまであり、見分けることがほぼ不可能であるような巧妙なフェイクがあり得る時代だから、今自分が見ているニュースがそもそも信じるに足るものなのかもその都度判断していなければならない。疲れる。石でできた帽子をかぶり、石でできたベストを羽織っているような重たさが常にある。
優しい友達は「とりあえず情報を遮断してみることも必要だよ」とアドバイスをくれるが、なかなかそうすることができない。
東日本大震災の余震が頻繁につづく頃、渋谷のIT企業に努めていた自分は、ビルの高層階にあって大きく揺れるオフィスの中で、営業職の同僚が揺れながら営業の電話をかけていた姿が忘れられない。建物がきしむほど揺れ動いているのに彼は「あ、揺れてますね……。で、この案件、先方の都合でペンディングになりそうなんですけど、正直、いつまでお待ちいただけるか、デッドラインをお聞きしたく」と、電話機に向かって話しつづけていた。
その姿を離れた席から眺め「こんな状況下で営業電話をかける意味があるのだろうか」と思った。「電話の相手だって揺れているだろうに」と。その後、喫煙所で「死ぬときは死ぬんですから、普段通りやるしかないっす」と話していた彼に畏敬に似た気持ちをおぼえつつ、余震が起きる度に机の下に潜り込むのが自分のやり方だとも感じた。
ある朝、ウクライナにある巨大な原発が砲撃を受けている、というようなニュースが最初はちらほらと、1時間後にはどのニュースサイトを開いてもいちばんのスクープとして目に入るようになり、しばらくは情報を追いつづけていたけどさすがに疲労を感じてきた。
情報は錯綜しており、もう少し時間が経ってからでないと事態を全体的に把握することはできなそうだった。スマートフォンでチェックすればいいのだから、と、緊張から逃れるように家を出た。
他に似たものの思いつかない店だった
少し前に、「阪堺電車」という、大阪府に唯一残る路面電車に乗った。「チン電」の愛称で親しまれるその電車を利用し、大阪の新今宮から堺市の浜寺公園まで、行く先々を気ままに取材するという主旨だったのだが、あとでそれがオンライン記事になったのを読んだ友人が「あの近くに大浜公園っていう公園があって、昔よく行った」と教えてくれた。その公園にはなぜか“サル舎”があって、猿が飼育されているそうなのだ。友人は昔、そこにいる猿たちをよく眺めて過ごしていたらしい。
そのことを思い出し、その大浜公園に行ってみることにした。JR新今宮駅で南海電鉄に乗り換え、堺駅で下車。駅前には広いロータリー、その向こうには大きなホテルが建っていて、整備が行き届いた印象だが、そこから数分も歩くと静かな住宅街だ。
おおよその方向としては公園に向かっているつもりで、あとは割と適当に歩いていると、オレンジ色のシェードがやけに目立つ店がある。のれんには「プノンペン」とある。
この名前には聞き覚えがあった、いや、プノンペンという地名にではなく、「プノンペンという変わった店がある」というようなことをだいぶ前に聞いた記憶があったのだ。幸い空腹である。のれんをくぐることにした。
昼時ということもあって満席で、店の奥の待合スペースでしばらく待つよう案内される。壁に貼ってあるメニューを見るに、「プノンペンそば」か、そばなしの「プノンペン」というふたつのメニューがメインらしい。
「メインらしい」というか、メニューはそれだけで、あとは豚肉のトッピングとか、ライスをつけるとかのオプションを選べるのみというスタイルなのだ。食材の産地について書いた紙も貼ってある。そこには、豚肉は鹿児島県産のもの、トマトは熊本県のもので……と列記されていて、セロリ、にんにく、杓子菜(しゃくしな)と、とにかく野菜がたっぷり入った料理らしいことがわかる。なかでも杓子菜のところに「店主が栽培しています」とあるのと、水は「河内長野市岩湧山へ汲みにいっております」と書いてあるのが印象的だった。
10分ほど経って私が通された席は、お店の方が中華鍋をふるって調理していくその目の前で、素晴らしい手際にじっと見入ってしまった。
最大6人前を1回で作っていくのが決まりらしい。黒く光った中華鍋を丁寧に拭き、丈夫そうな銀色のお玉も同じように布で磨く。そこから調理がはじまる。中華鍋に油を注ぎ、鍋肌に染み込ませるようにふる。そこに細かく切ったトマトを入れるとジューッと音がして、湯気が上がる。「鬼ころし」のラベルがついた一升瓶を持ち上げ、日本酒を鍋に注ぎ入れる。調味料をいろいろと加え、水を追加。豚バラを入れ、ニンニクを入れ、そこで一気に火力を上げる。ザルから取り出した大量の青菜が例の「杓子菜」だろう。それをドサッと鍋に投げ入れた。かなりのカサがあった杓子菜が一気に茹でられ、スープになじんでいくのが見ているだけでわかる。中華鍋にたっぷりできあがった野菜入りのスープをお玉にすくい、別の鍋で茹であげてどんぶりに移してあった麺の上にかけたらできあがり。オプションの豚入りを注文すると、そこにゴロゴロと分厚く切ったチャーシューがのる。
甘辛く、ニンニクが効いたスープにシャキシャキした歯ごたえの杓子菜とセロリがたっぷり浮かび、中太の麺をつかみあげるとトマトや豚バラも現れる。食べている最中にすでに「次に暇な日があったら絶対来る」と考えてしまうような美味しさだ。次回はどうしてもあのトッピングの豚肉が食べたい。
私の席は壁際で、壁にはこの店を取材した新聞記事が貼ってある。それによると、初代店主が若い頃、カンボジア出身だという人がやっていた屋台のラーメンを食べてその味に惚れ込み、苦心の末にその味を再現したのがこの「プノンペン」なのだそうだ。創業当時はよくある町の中華料理店で、他にもいろいろなメニューがあったが、その後、メニューを「プノンペン」だけに絞ることを決意し、今のかたちになったという。その経緯も含め、他に似たものの思いつかない店だった。
それぞれの猿が、それぞれであることを決めているもの
店を出て大きな道路を横切り、大浜公園へやってきた。明治12(1879年)に開園した公園で、1903年に開催された「第5回内国勧業博覧会」の会場にもなった場所だという。
世界各国(と日本国内)から当時最新の産業技術に関する展示品が集まってくる博覧会で、500万人以上もの来場者があったという。それに伴い、この公園には「堺水族館」をはじめ、たくさんの施設が作られて賑わったらしい。
と、そういう歴史を持つ「大浜公園」だが、時を経た今はそれらの施設もほとんど撤去され、寂しさを感じるほどにだだっ広い場所になっている。
「一等三角点のある日本一低い山」だという、ちょっとその価値がわからない標高6.8メートルの「蘇鉄山(そてつやま)」と、私の友人が言っていた「猿飼育舎」が見どころだろうか。
途中で買ってあった缶チューハイを飲みながら、猿たちを眺める。ここにいるのは「アカゲザル」という猿らしい。その生態について解説された案内板の「社会構造」の項目にこうある。
オスは大人になると生まれた群れを出て、他の群れに移るか、単独で生活します。しかし、メスは大人になっても生まれた群れで生活するため、メス同士の結びつきは強く、メスの社会的な順位がその子供の順位となる階級社会を形成しています。
親の順位が子供の順位を決める。そうやって短い文章で言い切られると残酷なようにも思えるが、これはそのまま私たち人間の社会と同じだ。生まれた家庭の収入、生活環境などによって、子供が触れられるものに差ができる。もちろんそれがすべてを決定するわけではないが、最初の条件が時には翼のようにもなり、時には鎖のように重くのしかかってくる。
社会学者の岸政彦さんがテレビで紹介していたピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』という著書がまさにそのような、階級がその人の嗜好を決定するということについて分析したもので、私はまだその本を読んでいないけど、そのことを思い出しながら猿たちを見る。
つい先日、好きなミュージシャンのライブ(コロナ禍でタイミングが難しく、ようやく開催されたものだった)に行ったら、自分と似たような服装の人がすごく多くて驚いた。大勢の人が集まる場にいること自体が久々だったので、なおさらびっくりしたのかもしれない。
だいたい同じような生活をして、好きな音楽とか好きな映画、好きなお笑い芸人とかもほぼ同じで、当然のように「あんな感じの服、いいよな」と思う服も近いのだろう。私たちは私たちが思っているより、独立した価値を持つ自分というものではないのかもしれない。それは少し寂しいことだけど、ちょうどいい温度の湯につかっているような安心感を与えてくれもする。
飼育舎の中に係員が入ってきて、地面を掃除している。その肩や頭に小さな猿が飛び乗り「おいおい、危ないで」などと言われている。
私の右手前方には鎖で車のタイヤを釣った遊具があり、そこに飛び移る猿がいる。左の奥の方、高い位置に身を寄せ合うようにして5、6匹がいる。お腹の大きい猿がいる。何度も地面を舐めている幼い猿がいる。係員にじゃれている猿は左腕にしがみついて離れない。このそれぞれの猿が、それぞれであることを決めているものはいったいなんなんだろう。私たちが自分自身で選択できることの範囲はいったいどれほどなんだろう。
愛する飲み仲間たちをここに連れてきて、一緒にいろいろと食べよう
飼育舎を離れ、海のほうへ歩く。海辺には「旧堺燈台」というものが建っていた。1877年に作られたもので、「木造洋式燈台」のなかでは国内最古のもののひとつだという。まわりの工場の煙突が白煙をあげるなか、古い燈台だけが静かだった。
そこからまたしばらく歩き、「湊潮湯(みなとしおゆ)」という銭湯にたどり着いた。1923(大正12年)年創業の古い銭湯で、大阪で唯一、海水を使ったお風呂があるそうだ。
中に入ってすぐ目に入る案内板には、沖合2.5キロメートルまでパイプを延ばして海水を吸い上げていると記されていた。その海水をろ過したうえで加熱しているそうだ。
浴場内に「海水風呂」の広い湯舟があり、さらに屋外にある露天風呂も「海水風呂」になっている。開店直後の時間帯だったが、浴場内はかなり賑わっていた。そんななか、なぜか誰もいなかった露天風呂でしばらく体を温めた。
つかっていると、徐々に皮膚がピリピリと沁みてくるように感じる。なるほどこれは、やはり海水なのだ。遠い沖合からわざわざ汲み上げられてきたものだと思うと、ありがたく感じる。露天風呂の小さな湯舟から見上げれば、同じく小さな四角い空が見える。白く曇ってはいるが、確かに空だ。空の下で、海の水に体を沈めている。私がこうしている時間は、海の向こうの惨状とは切り離されたものに思えるが、もちろん本当はつながっている。空から何か降ってくるかもしれない。海水に何か得体のしれないものが溶け込み、ここまでくるかもしれない。
海水風呂でしっかり体を温めて浴場を出た。フロントの脇に冷蔵ケースがあり、その中には250ミリリットル入りの、背の低い缶ビールも見えた。価格を聞くと200円とのことで、ひとつ買わせてもらう。お店の方が、手袋をつけた手でお釣りを渡してくれながら「手袋でごめんね。寒くてなぁ」と言う。
私の後方には、空っぽのカウンターを囲んで椅子が何脚か置かれており、おつまみやお酒を出していたらしきメニュー表が貼ってある。
それについてたずねると、「今はもう、やっとらん。時の流れですなぁ」とのことで、コロナ禍以降は閉めてしまったスペースのようだった。「ユーバス(堺市内にあったスーパー銭湯)ゆうて大きなのもあったけど、潰れてしもた。ここはまだ、潮の湯があるから来てくれるけどな」「また、ご縁があったら来てください。お気をつけて」と、優しい言葉に送り出される。最後に1枚、お願いして写真を撮らせていただく。
もう少しだけ散策して帰ろうと思って歩いていると、「田宮酒店」と書かれた紫ののれんがかかる店の前に出た。中で酒を飲めるようだったので、ひと休みしていくことに。
ホワイトボードのメニューには、「マグロお造り」「かんぱちお造り」「ホタテ串焼き」「島フグ塩焼き」「タチウオ塩焼き」といった文字が並び、どれも安い。堺には魚市場があるから、きっとそこから新鮮な魚を仕入れてくるのだろう。「かんぱち造り」と「新子」、そしてレモンチューハイを注文する。
かんぱちの刺身の色合いが美しく、ひと切れ食べてみると、脂の甘みが口に広がった。あまりに美味しくて、目頭が熱くなる。こんなお店を、今まで知りもしなかったとは。ふくよかな旨みを感じる新子をつまみつつ、レモンチューハイをグイグイと飲み、「さて次のつまみは……」と一瞬考えたが、やめた。いつか私の愛する飲み仲間たちをここに連れてきて、そのとき、一緒にいろいろと食べよう。それまでは死ねない。想像力に欠けた誰かの思惑になんか巻き込まれてたまるか。チューハイも一杯だけにして、お会計をお願いする。必ずここにまた来るのだ。
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『家から5分の旅館に泊まる』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年7月25日(木)より発売いたします。
筆者について
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』を中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』、『「それから」の大阪』など。パリッコとの共著に『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『酒の穴』などがある。