叱られることも、叱ることも苦手だ。僕は、日々酒ばっかり飲んでへらへらしているだけの人間で、人を叱る資格というものをまず持ち合わせていない。ただし、こと「子育て」においては、どうしても子供を叱らないといけない状況というものが発生する。
いちばん苦手なこと
僕がいちばん苦手なことのひとつが「人から叱られること」であることは間違いない。人から叱られることが嫌すぎて、そこから逃げるように逃げるように生きてきた結果、最近やっと人から叱られる機会も減ってきてほっとしている今の自分がいると言っても過言ではない。
そもそも人が人を、“叱って伸ばす”という発想自体、幻想なんじゃないだろうかとすら思う。会社に入ってきた新入社員を、それより経験を詰んだ先輩(先に入社したんだから当然だ)が、なにかミスをするたび強い口調で叱る。その語気の強さなどによって事の重大さを伝えようという意味があるんだろうし、本人は「相手のためを思って」という気持ちがあるのかもしれないけれど、当の叱られてるほうは、同時に怨みの気持ちもつのらせてゆくことになる。それに、僕のこれまでの社会人経験上だけで言えば、誰かを叱っている人は、同時に個人的なストレスを発散したり、ナルシズムに酔っているようなことが多かった気がする。もちろん、この世には叱り上手な人というのもいるのだろう。なのでこれは、完全に個人的な偏見だと断っておくが。
若かりしころは、ぶっ飛んだ感性のミュージシャンやアーティストに憧れて、そういう活動を自分でやってみたりもした。けれども根が徹底的に器用貧乏で、なにをやってもそれなりにはできても(球技や勉強は別)、一方、なにをやっても及第点のものしか作れない。今となってはそんな自分をすっかり受け入れ、だいぶ生きやすくなったものの、ずっとそのことがコンプレックスだった。ただ、器用貧乏にも便利なところはあって、会社組織などにおいては、とりあえずそれなりにうまく立ち回ることはできる。つまり、大出世はしないけど、叱られることもあまりない、という感じ。それだけに、たまに怒りのツボのよくわからない取引先の人なんかに不条理に叱られたりすると、すぐに心がパリーン! と割れる。とても耐えられない。結果、その人と関わり続けなければいけない環境から極力早く逃げよう、という思考になる。
先日娘を連れて行った「交通公園」でこんなことがあった。子供たちが無料でレンタルできる自転車の駐輪場で、見知らぬ小さな女の子が、自転車のスタンドをうまく立てることができずに苦労していた。どうやら親御さんは少し離れた場所にいるようだ。そこで、「大丈夫?」と声をかけ、何気なく手伝ってあげていたとき、僕に向かって、関西弁の強い口調でこんな声が飛んできた。
「その子、コース逆走して他の子こかしてましたよ!」
「?」と思ったときにはもう、その男性はスタスタとその場を去ってしまっていた。つまり僕のことをその子の父親だと思ったのだろう。「いや、この子は今初めて会った子で……」などと言い訳することもできず、ただただ「人から叱られた」という辛さ、悔しさだけが心に残った。そんなにライトに人を叱っちゃだめだよ、見ず知らずの人よ。その件はどうにも消化できないまま、けっきょく小一時間引きずった。
大いなる矛盾
そんなことだから、当然人を叱ることも苦手だ。というか僕は、日々酒ばっかり飲んでへらへらしているだけの人間で、人を叱る資格というものをまず持ち合わせていない。心からそう思う。
ただし、ここから先に矛盾が生じることになる。こと「子育て」においては、やはりどうしても、娘を叱らないといけない状況というものが発生する。まだ5歳の娘は、僕ら親より圧倒的に人生経験が少なく、日々生きていくなかで、小さな間違いをたくさんしてしまうから。そして、それを正すのは親の役目のはずだから。自分が娘よりも立派な存在だなどとは微塵も思っていない。だけどわかりやすく言えば、食事中に汚れた口を服の袖でぬぐってしまったら、「ぼこちゃん、お洋服じゃなくてティッシュで拭いて!」と叱らざるをえない。しかも、それを優しく指摘できているうちはいいけれど、何度も同じことをくり返されたり、自分に気持ちの余裕がないときなどは、そこにイライラの感情がのってしまう。自分がいちばん苦手なことを娘にしてしまう。当然、あとから後悔の念が押し寄せる。
そもそも僕は、世の中においてもだいぶ、大人として立派ではない部類に含まれる人間である自覚がある。また、娘に対しつい頭ごなしに「だめ!」と言ってしまうことも多いが、その叱りかたは正しくなく、「こういう理由があるから、こうしてね」と説明してあげるのがより良い方法だと、よく妻に叱られているほどだ。つまり僕にとって子供を叱るという行為には、常に矛盾がつきまとう。自分で言いつつ「どの口が言ってんだ」と、心のなかでつっこみたくなってしまうことも多い。
たとえば休日などに、ふだんはなるべくさせないようにしているものの、特別に娘が好きなアニメなどをつけながら夕食を食べているとき。当然娘はアニメに気をとられ、たびたび箸が止まってしまう。そこで僕が言う。「ぼこちゃん、アニメに夢中になりすぎない! ごはんもちゃんと食べる! 時計の針が下向くまでに食べ終わろうね」。娘はそのたび「は〜い」などと言い、そんなやりとりを何度かしつつ夕食を食べ終えることになる。なのにだ、「ごちそうさま!」と言って違う遊びを始めた娘を眺めながら、僕はまだ、残ったおかずをちびちびつまみ、酒を飲んでいるのだ。あげくの果てに、おかずもなくなってしまって、「漬物かなんかなかったかな?」なんて冷蔵庫に向かったりする。こんなにも大いなる矛盾があるだろうか!?
「明日起きられなくなっちゃうよ!」
叱ることに関する矛盾はまだまだいくらでもある。
娘が「もう、おなかいっぱい」と言ってごはんを残してしまったあとにすぐ、「なんだかアイスがたべたいな〜」と言ってきたとき、当然「ごはん残しちゃったのにアイスはおかしいでしょ! 栄養もかたよっちゃうよ」と叱らざるをえない。ところが僕は、なるべく長く酒とつまみをちびちびやりたいから、夜は基本、米などの主食を食べないタイプだ。まさに“どの口が”という話。
日中、娘が居間に置いてある非常用のランタンをつけて遊びだし、居間のカーテンを全部閉めてしまって、「これはおもちゃじゃないの! 本当に使いたいときに電池がなくなっちゃうからやめてね」と叱ったこともあったが、実はこっちも、その非日常感にわくわくしていたことは秘密にしておきたい。
しまってもしまってもまた出してきてしまい、毎日のように「おもちゃは使ったら片づけて!」と叱っているが、これもまた、謎のキッチングッズであふれかえった自分の部屋を見てから言えという話。
「ぼこちゃん、きょうはおふろにはいらないでねちゃいたいな〜」と言う娘に、「お風呂は毎日入らないといけないんだよ。清潔にしてないと病気になっちゃうこともあるからね」と言う日も多い。ただその前日、酒を飲んで終電ぎりぎりに帰宅し、服も着替えないまま寝ていた僕にだけは、娘も言われたくないだろう。
つい数時間前も、寝かしつけを担当し、ベッドに入って電気を消したあとで、「えほんちょっとみたい」「むぎちゃのみたい」「トイレいきたい」などのリクエストを連発され、「もうこれで最後! 早く寝る! 明日起きられなくなっちゃうよ!」と、最終的に強めに娘を叱ってしまった。ところがその後、娘が寝たのを確認して妻と交代し、自室のふとんに移動すると、なんだか目が冴えてしまっている。しかも、つい無益にスマホなどをだらだらと眺めはじめてしまい、よけいに眠れない。こりゃもうだめだなと諦めてむくりと起き、締め切りのせまったこの原稿を書いている現在時刻、午前3時半。これを矛盾と言わずしてなんと言おう。今、自分が自分に対して心の底から言いたい。「明日起きられなくなっちゃうよ!」。
こうして書き出してみると、娘に対し、「こうしたほうがいいよ」とアドバイスすべきことはたくさんあるけれど、本当に叱るべきことって、そんなに多くはない。もちろん、これからもっともっと複雑な「社会」というものに関わっていくようになれば、また話は変わっていくのかもしれないけれど。
そのときどきで、せめて親の役割というものを自分なりに考え、なるべくなら感情的になることなく、娘と接していくことにしよう。って、それが簡単にできたら苦労はないんだけどさ。
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パリッコ『缶チューハイとベビーカー』次回第31回は、2023年5月9日(火)17時配信予定です。
筆者について
1978年東京生まれ。酒場ライター、漫画家/イラストレーター、DJ/トラックメイカー、他。酒好きが高じ、2000年代後半より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『つつまし酒 あのころ、父と食べた「銀将」のラーメン』、『ノスタルジーはスーパーマーケットの2階にある』、『晩酌わくわく!アイデアレシピ』、『天国酒場』、『つつまし酒 懐と心にやさしい46の飲み方』、『ほろ酔い!物産館ツアーズ』、『酒場っこ』、『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』、スズキナオ氏との共著に『のみタイム 1杯目 家飲みを楽しむ100のアイデア』、『“よむ”お酒』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『酒の穴』(シカク出版)。